癪《しやく》にさはつたのだ。
「泣《な》くなよ、困《こま》つたもんだ。泣《な》くなつたら、可《い》いか、泣《な》いたつて仕樣《しやう》がない。」
また一層《いつそう》聲《こゑ》をあげて泣《な》き出《だ》した。
中《うち》に居《ゐ》た休息員《きうそくゐん》は帳簿《ちやうぼ》を閉《と》ぢて、筆《ふで》を片手《かたて》に持《も》つたまゝで、戸《と》をあけて、
「何處《どこ》か其處等《そこいら》へ連《つ》れて行《い》つて見《み》たらば何《ど》うだね。」
「まあ、もうちつと斯《か》うやつとかう、いまに尋《たづ》ねに來《こ》ようと思《おも》ふから。」
「それも左樣《さう》か。おい、泣《な》かんでも可《い》い、泣《な》かないで、大人《おとな》しくして居《ゐ》るとな、直《す》ぐ母樣《おつかさん》が連《つ》れに來《く》るんぢや。」
またアノ可愛《かはい》いふり[#「ふり」に傍点]をして、頷《うなづ》いて、其《その》まゝ泣《な》きやんで、ベソを掻《か》いて居《ゐ》る。
風《かぜ》が吹《ふ》くたびに、糖雨《こぬかあめ》を吹《ふ》きつけて、ぞつとするほど寒《さむ》いので、がた/\ふるへるのを見《み》ると、お孝《かう》は堪《たま》らなかつた。
彌次馬《やじうま》なんざ、こんな不景氣《ふけいき》な、張合《はりあひ》のない處《ところ》には寄着《よりつき》はしないので、むらがつてるものの多《おほ》くは皆《みな》このあたりの廣場《ひろば》でもつて、びしよ/\雨《あめ》だから凧《たこ》を引摺《ひきず》つてた小兒等《こどもら》で。泣《な》くのがおもしろいから「やい、泣《な》いてらい!」なんて、景氣《けいき》のいゝことをいつて見物《けんぶつ》して居《ゐ》る。
子守《こもり》がまた澤山《たくさん》寄《よ》つて居《ゐ》た。其中《そのなか》に年嵩《としかさ》な、上品《じやうひん》なのがお守《もり》をして六《むつ》つばかりの女《むすめ》の兒《こ》が着附《きつけ》萬端《ばんたん》姫樣《ひいさま》といはれる格《かく》で一人《ひとり》居《ゐ》た。その飼犬《かひいぬ》ではないらしいが、毛色《けいろ》の好《い》い、耳《みゝ》の垂《た》れた、すらつとしたのが、のつそり、うしろについてたが、皆《みんな》で、がや/\いつて、迷兒《まひご》にかゝりあつて、うつかりしてる隙《ひま》に、房《ふつ》さりと結《むす》んでさげた其《その》姫樣《ひいさま》の帶《おび》を銜《くは》へたり、八《や》ツ口《くち》をなめたりして、落着《おちつ》いた風《ふう》でじやれてゐるのを、附添《つきそひ》が、つと見《み》つけて、びツくりして、叱《しつ》! といつて追《お》ひやつた。其《それ》は可《い》い、其《それ》は可《い》いけれど、犬《いぬ》だ。
悠々《いう/\》と迷兒《まひご》のうしろへいつて、震《ふる》へて居《ゐ》るものを、肩《かた》の處《ところ》ぺろりとなめた。のはうづに大《おほ》きな犬《いぬ》なので、前足《まへあし》を突張《つツぱ》つて立《た》つたから、脊《せ》は小《ちつ》ぽけな、いぢけた、寒《さむ》がりの、ぼろツ兒《こ》より高《たか》いので、いゝ氣《き》になつて、垢染《あかじ》みた襟《えり》の處《ところ》を赤《あか》い舌《した》の長《なが》いので、ぺろりとなめて、分《わか》つたやうな、心得《こゝろえ》てゐるやうな顏《かほ》で、澄《すま》した風《ふう》で、も一《ひと》つやつた。
迷兒《まひご》は悲《かなし》さが充滿《いつぱい》なので、そんなことには氣《き》がつきやしないんだらう、巡査《じゆんさ》にすかされて、泣《な》いちやあ母樣《おつかさん》が來《き》てくれないのとばかり思《おも》ひ込《こ》んだので、無理《むり》に堪《こら》へてうしろを振返《ふりかへ》つて見《み》ようといふ元氣《げんき》もないが、むず/\するので考《かんが》へるやうに、小首《こくび》をふつて、促《うなが》す處《ところ》ある如《ごと》く、はれぼつたい眼《め》で、巡査《じゆんさ》を見上《みあ》げた。
犬《いぬ》はまたなめた。其舌《そのした》の鹽梅《あんばい》といつたらない、いやにべろ/\して頗《すこぶ》るをかしいので、見物《けんぶつ》が一齊《いつせい》に笑《わら》つた。巡査《じゆんさ》も苦笑《にがわらひ》をして、
「おい。」とさういつた。
お孝《かう》は堪《たま》らなかつた。かはいさうで/\かはいさうでならないのを、他《ほか》に多勢《おほぜい》見《み》て居《ゐ》るものを、女《をんな》の身《み》で、とさう思《おも》つて、うつちやつては行《ゆ》きたくなし、さればツて見《み》ても居《ゐ》られず、ほんとに何《ど》うしようかと思《おも》つて、はツ/\したんだから、此時《このとき》もう堪《たま》らなくなつたんだ。
いきなり前《まへ》へ出《で
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