前が崩れるというでもないよ。」
 とさすがに手を控えて、例の衣兜へ突込んだが、お蔦の目前《めさき》を、(子を捉《と》ろ、子捉ろ。)の体で、靴足袋で、どたばた、どたばた。
「はい、これは柳橋流と云うんです。柳のように房々活けてありましょう、ちゃんと流儀があるじゃありませんか。」
「嘘を吐きたまえ、まあ可いから、僕が惚込んだ花だから。」
 主税は火鉢をぐっと手許へ。お蔦はすらりと立って、
「だってもう主のある花ですもの。」
「主がある!」と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る。
「ええ、ありますとも、主税と云ってね。」
「それ見ろ、早瀬、」
「何だ、お前、」
「いいえ、貴下《あなた》、この花を引張《ひっぱ》るのは、私を口説くのと同一《おんなじ》訳よ。主があるんですもの。さあ、引張って御覧なさい。」
 と寄ると、英吉は一足引く。
「さあ、口説いて頂戴、」
 と寄ると、英吉は一足引く。微笑《ほほえ》みながら擦《す》り寄るたびに、たじたじと退《すさ》って、やがて次の間へ、もそりと出る。


     道学先生

       二十二

 月の十二日は本郷の薬師様の縁日で、電車が通るようになっても相かわらず賑《にぎや》かな。書肆《ほんやの》文求堂をもうちっと富坂寄《とみざかより》の大道へ出した露店《ほしみせ》の、いかがわしい道具に交ぜて、ばらばら古本がある中の、表紙の除《と》れた、けばの立った、端摺《はしずれ》の甚《ひど》い、三世相を開けて、燻《くす》ぼったカンテラの燈《あかり》で見ている男は、これは、早瀬主税である。
 何の事ぞ、酒井先生の薫陶《くんとう》で、少くとも外国語をもって家を為《な》し、自腹で朝酒を呷《あお》る者が、今更いかなる必要があって、前世の鸚鵡《おうむ》たり、猩々《しょうじょう》たるを懸念する?
 もっとも学者だと云って、天気の好《い》い日に浅草をぶらついて、奥山を見ないとも限らぬ。その時いかなる必要があって、玉乗の看板を観ると云う、奇問を発するものがあれば、その者愚ならずんば狂に近い。鰻屋の前を通って、好い匂がしたと云っても、直ぐに隣の茶漬屋へ駈込みの、箸を持ちながら嗅《か》ぐ事をしない以上は、速断して、伊勢屋だとは言憎い。
 主税とても、ただ通りがかりに、露店《ほしみせ》の古本の中にあった三世相が目を遮ったから、見たばかりだ、と言えば
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