入ったのか、直ぐに消えた。
 ぱたぱたと、我ながら慌《あわただ》しく跫音《あしおと》立てて、一文字に駈けつけたが、室へ入口で、思わず釘附にされたようになった。
 バサリと音して、一握《ひとにぎり》の綿が舞うように、むくむくと渦《うずま》くばかり、枕許の棚をほとんど転《ころが》って飛ぶのは、大きな、色の白い蛾《ひとりむし》で。
 枕をかけて陰々とした、燈《ともしび》の間に、あたかも鞠《まり》のような影がさした。棚には、菅子が活けて置いた、浅黄の天鵝絨《びろうど》に似た西洋花の大輪《おおりん》があったが、それではなしに――筋一ツ、元来の薬|嫌《ぎらい》が、快いにつけて飲忘れた、一度ぶり残った呑かけの――水薬《すいやく》の瓶に、ばさばさと当るのを、熟《じっ》と瞻《みつ》めて立つと、トントントンと壇を下りるような跫音がしたので、どこか、と見当も分らず振向いたのが表階子の方であった。その正面の壁に、一番|明《あかる》かった燈《ひ》が、アワヤ消えそうになっている。
 その時、蛾《ひとりむし》に向うごとく、衝《つ》と踏込む途端に、
「私ですよう引[#「引」は小書き]」と床に沈んで、足許の天井裏に、電話の糸を漏れたような、夢の覚際に耳に残ったような、胸へだけ伝わるような、お蔦の声が聞えたと思うと、蛾《ひとりむし》がハタと落ちた。
 はじめて心付くと、厠の戸で冷く握って、今まで握緊《にぎりし》めていた、左の拳《こぶし》に、細い尻尾のひらひらと動くのは、一|尾《ぴき》の守宮《やもり》である。
 はっと開くと、雫《しずく》のように、ぽたりと床に落ちたが、足を踏張ったまま動きもせぬ。これに目も放さないで、手を伸ばして薬瓶を取ると、伸過ぎた身の発奮《はず》みに、蹌踉《よろ》けて、片膝を支《つ》いたなり、口を開けて、垂々《たらたら》と濺《そそ》ぐと――水薬の色が光って、守宮の頭を擡《もた》げて睨《にら》むがごとき目をかけて、滴るや否や、くるくると風車のごとく烈しく廻るのが、見る見る朱を流したように真赤《まっか》になって、ぶるぶると足を縮めるのを、早瀬は瞳を据えて屹《きっ》と視た。

       四十九

 早瀬はその水薬《すいやく》の残余《のこり》を火影《ほかげ》に透かして、透明な液体の中に、芥子粒《けしつぶ》ほどの泡の、風のごとくめぐる状《さま》に、莞爾《にっこり》して、
「面白い!」
 
前へ 次へ
全214ページ中198ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング