に縁へ遁《に》げた洋服は――河野英吉。続いて駈出そうとする照陽女学校の教頭、宮畑閑耕《みやばたかんこう》の胸《むな》づくし、釦《ぼたん》が引《ひっ》ちぎれて辷《すべ》った手で、背後《うしろ》から抱込んだ。
「そ、そこに泣いていらっしゃるなア大先生の嬢様でがしょう。飯田町の路地で拝んで、一度だが忘れねえ。此奴等《こいつら》がこの地獄宿へ引張込んだのを見懸けたから、ちびりちびり遣りながら、痴《こけ》の色ばなしを冷かしといて、ゆっくり撲《なぐ》ろうと思ったが、勿体なくッて我慢ならねえ。酒井さんのお嬢さん、私《わっし》がこうやっている処を、ここへ来て、こン唐人|打挫《ぶっくじ》いておやんなせえ、お打《ぶ》ちなせえ、お打ちなせえ。
どうしてまたこんな処へ。……何、八丁堀へおいでなすって。ええ、お帰んなさる電車で逢ったら、一人で遠歩きが怪しいから、教師の役目で検《しら》べるッて、……沙汰の限りだ。
むむ、此奴等、活かして置くんじゃねえけれど、娑婆の違った獣《けだもの》だ、盆に来て礼を云え。」
と突飛ばすと、閑耕の匐《のめ》った身体《からだ》が、縁側で、はあはあ夢中になって体操のような手つきでいた英吉に倒れかかって、脚が搦《から》んで漾《ただよ》う処へ、チャブ台の鉢を取って、ばらり天窓《あたま》から豆を浴びせた。惣助|呵々《からから》と笑って、大音に、
「鬼は外、鬼は外――」
道子
二十九
夫の所好《このみ》で白粉《おしろい》は濃いが、色は淡い。淡しとて、容色《きりょう》の劣る意味ではない。秋の花は春のと違って、艶《えん》を競い、美を誇る心が無いから、日向《ひなた》より蔭に、昼より夜、日よりも月に風情があって、あわれが深く、趣が浅いのである。
河野病院長医学士の内室、河野家の総領娘、道子の俤《おもかげ》はそれであった。
どの姉妹《きょうだい》も活々して、派手に花やかで、日の光に輝いている中に、独り慎ましやかで、しとやかで、露を待ち、月にあこがるる、芙蓉《ふよう》は丈のびても物寂しく、さした紅も、偏《ひと》えに身躾《みだしなみ》らしく、装った衣《きぬ》も、鈴虫の宿らしい。
いつも引籠勝《ひっこもりがち》で、色も香も夫ばかりが慰むのであったが、今日は寺町の若竹座で、某《なにがし》孤児院に寄附の演劇があって、それに附属して、市の貴婦人連が、
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