めて肩を引いた。が、幻の花環一つ、黒髪のありし辺《あたり》、宙に残って、消えずに俤《おもかげ》に立つ。
主税は仰向けに倒れたが、枕はしないで、両手を廻して、しっかと後脳を抱いた。目はハッキリと※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、失せやらぬその幻を視めていた。時過ぎる、時過ぎる、その時の過ぎる間に、乳母が長火鉢の処の、洋燈《ランプ》を消したのが知れて、しっこは、しっこは、と小児《こども》に云うのが聞えたが、やがて静まって、時過ぎた。
早瀬は起上って、棚の残燈《ありあけ》を取って、縁へ出た。次の書斎を抜けるとまた北向きの縁で、その突当りに、便所《かわや》があるのだが、夫人が寝たから、大廻りに玄関へ出て、鞠子の婢《おさん》の寝た裙《すそ》を通って、板戸を開けて、台所《だいどこ》の片隅の扉《ひらき》から出て、小用を達《た》して、手を洗って、手拭《てぬぐい》を持つと、夫人が湯で使ったのを掛けたらしい、冷く手に触って、ほんのり白粉《おしろい》の香《におい》がする。
十九
寝室《ねま》へ戻って、何か思切ったような意気込で、早瀬は勢《いきおい》よく枕して目を閉じたが、枕許の香《こう》は、包を開けても見ず、手拭の移香でもない。活々した、何の花か、その薫の影はないが、透通って、きらきら、露を揺《ゆす》って、幽《かすか》な波を描いて恋を囁《ささや》くかと思われる一種微妙な匂が有って、掻巻の袖を辿《たど》って来て、和《やわら》かに面《おもて》を撫でる。
それを掻払《かいはら》うごとく、目の上を両手で無慚《むざん》に引擦《ひっこす》ると、ものの香はぱっと枕に遁《に》げて、縁側の障子の隅へ、音も無く潜んだらしかったが、また……有りもしない風を伝って、引返《ひっかえ》して、今度は軽《かろ》く胸に乗る。
寝返りを打てば、袖の煽《あおり》にふっと払われて、やがて次の間と隔ての、襖の際に籠った気勢《けはい》、原《もと》の花片《はなびら》に香が戻って、匂は一処に集ったか、薫が一汐《ひとしお》高くなった。
快い、さりながら、強い刺戟を感じて、早瀬が寝られぬ目を開けると、先刻《さっき》(お休みなさい。)を云った時、菅子がそこへ長襦袢の模様を残した、襖の中途の、人の丈の肩あたりに、幻の花環は、色が薄らいで、花も白澄んだけれども、まだ歴々《ありあり》と瞳に映る
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