行ったのである。
 そこへ、しばらくして、郵便――だった。
 すらすらと読果てた。手紙を巻戻しながら顔を振上げると、乱れたままの後れ毛を、煩《うる》さそうに掻上げて、
「ついぞ思出しもしなかった、乳なんか飲まれて、さんざ膏《あぶら》を絞られたわ。」
 と急いで衣紋を繕って、
「さあ、お酌をしましょう。」
 瓶を上げると、重い。
「まあ、ちっとも召喫《めしあが》らないのね。お酌がなくっては不可《いけな》いの、ちょいと贅沢《ぜいたく》だわ。ほほほほ、家《うち》も極《き》まったし、一人で世帯を持った時どうするのよ。」
「沢山頂きました、こんなに御厄介になっては、実に済みません……もう、徐々《そろそろ》失礼しましょう。」
 と恐しく真面目に云う。
「いいえ、返さない。この間から、お泊んなさいお泊んなさいと云っても、貴下が悪いと云うし、私も遠慮したけれど、可《い》いわ、もう泊っても。今ね、御覧なさい、牛込に居る母様《かあさま》から手紙が来て、早瀬さんが静岡へお出《いで》なすって、幸いお知己《ちかづき》になったのなら、精一杯御馳走なさい、と云って来たの。嬉しいわ、私。
 あのね、実はこれは返事なんです。汽車の中でお目にかかった事から、都合があってこちらで塾をお開きなさるに就いて、ちっとも土地の様子を御存じじゃない、と云うから、私がお世話をしてなんて、そこはね、可いように手紙を出したの、その返事、」
 と掌《てのひら》に巻き据えた手紙の上を、軽《かろ》く一つとんと拍《う》って、
「母様《かあさん》が可い、と云ったら、天下晴れたものなんだわ。緩《ゆっく》り召食《めしあが》れ。そして、是非今夜は泊るんですよ。そのつもりで風呂も沸《わか》してありますから、お入んなさい。寝しなにしますか、それとも颯《さっ》と流してから喫《あが》りますか。どちらでも、もう沸いてるわ。そして、泊るんですよ。可《よ》くって、」
 念を入れて、やがて諾《うん》と云わせて、
「ああ、昨日《きのう》も一昨日《おととい》も、合歓の花の下へ来ては、晩方|寂《さみ》しそうに帰ったわねえ。」

       十六

 さて湯へ入る時、はじめて理学士の書斎を通った。が、机の上は乱雑で、そこに据えた座蒲団も無かった、早瀬に敷かせているのがそれらしい。
 机には、広げたままの新聞も幅をすれば、小児《こども》の玩弄物《おもちゃ》も
前へ 次へ
全214ページ中138ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング