の下へ横《よこた》えると、惜げもなく、髪で、件《くだん》の暖簾を分けて、隣の紺屋の店前《みせさき》へ顔を入れた。
「御免なさいよ、御隣家《おとなり》の屋《いえ》を借りたいんですが、」
「何でございますと、」
と、頓興《とんきょう》な女房の声がする。
「家賃は幾干《いくら》でしょうか。」
「ああ、貞造さんの家《うち》の事かね。」
余り思切った夫人の挙動《ふるまい》に、呆気《あっけ》に取られて茫然とした主税は、(貞造。)の名に鋭く耳をそばだてた。
「空家ではござりませぬが。」
「そう、空家じゃないの、失礼。」
と肩の暖簾をはずして出たが、
「大照れ、大照れ、」
と言って、莞爾《にっこり》して、
「早瀬さん、」
「…………」
「人のことを、貴族的だなんのって、いざ、となりゃ私だって、このくらいな事はして上げるわ。この家《うち》じゃ、貴下だって、借りたいと言って聞かれないでしょう。ちょいと、これでも家の世話が私にゃ出来なくって?」
さすがに夫人もこれは離れ業《わざ》であったと見え、目のふちが颯《さっ》となって、胸で呼吸《いき》をはずませる。
その燃ゆるような顔を凝《じっ》と見て、ややあって、
「驚きました。」
「驚いたでしょう、可い気味、」
と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、歩行《ある》き出そうとして、その茅家をもう一目。
「しかし極《きまり》が悪かってよ。」
「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に……」と先刻《さっき》拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙って頷《うなず》いたばかりで、取るような、取らぬような、歩行《ある》きながら肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人がまだ取られぬのを、離すと落ちるし、そうかと云って、手はかけているから……引込めもならず……提げていると……手巾が隔てになった袖が触れそうだったので、二人が斉《ひと》しく左右を見た。両側の伏屋《ふせや》の、ああ、どの軒にも怪しいお札の狗《いぬ》が……
貸小袖
十五
今来た郵便は、夫人の許《もと》へ、主人《あるじ》の島山理学士から、帰宅を知らせて来たのだろう……と何となくそういう気がしつつ――三四日日和が続いて、夜になってももう暑いから――長火鉢を避《よ》けた食卓の角の処に、さすがにまだ端然《きちん》と坐って、例の(菅女部屋。)で、主税は独酌にして、ビイル。
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