主税の肩と擦違い、
「さあ、こっちへいらしって、沢山《たんと》お煙草を召上れ。」
と見返りもしないで先に立って、件《くだん》の休憩室へ導いた。背《うしろ》に立って、ちょっと小首を傾けたが、腕組をした、肩が聳《そび》えて、主税は大跨《おおまた》に後に続いた。
窓の外は、裾野の紫雲英《げんげ》、高嶺《たかね》の雪、富士|皓《しろ》く、雨紫なり。
五
聞けば、夫人は一週間ばかり以前から上京して、南町の桐楊塾に逗留《とうりゅう》していたとの事。桜も過ぎたり、菖蒲《あやめ》の節句というでもなし、遊びではなかったので。用は、この小児《こども》の二年《ふたつ》姉が、眼病――むしろ目が見えぬというほどの容態で、随分|実家《さと》の医院においても、治療に詮議《せんぎ》を尽したが、その効《かい》なく、一生の不幸になりそうな。断念《あきらめ》のために、折から夫理学士は、公用で九州地方へ旅行中。あたかも母親は、兄の英吉の事に就いて、牛込に行っている、かれこれ便宜だから、大学の眼科で診断を受けさせる為に出向いた、今日がその帰途《かえり》だと云う。
もとよりその女の児《こ》に取って、実家《さと》の祖父《おじい》さんは、当時の蘭医(昔取った杵《きね》づかですわ、と軽い口をその時交えて、)であるし、病院の院長は、義理の伯父さんだし、注意を等閑にしようわけはないので、はじめにも二月三月、しかるべき東京の専門医にもかかったけれども、どうしても治らないから、三年前にすでに思切って、盲目《めくら》の娘、(可哀相だわねえ、と客観《かっかん》的の口吻《くちぶり》だったが、)今更大学へ行ったって、所詮|効《かい》のない事は知れ切っているけれど、……要するにそれは口実にしたんですわ、とちょいと堅い語《ことば》が交った。
夫がまた、随分自分には我儘《わがまま》をさせるのに、東京へ出すのは、なぜか虫が嫌うかして許さないから、是非行きたいと喧嘩も出来ず。ざっと二年越、上野の花も隅田の月も見ないでいると、京都へ染めに遣った羽織の色も、何だか、艶《つや》がなくって、我ながらくすんで見えるのが情ない。
まあ、御覧なさい、と云う折から窓を覗《のぞ》いた。
この富士山だって、東京の人がまるっきり知らないと、こんなに名高くはなりますまい。自分は田舎で埋木《うもれぎ》のような心地《こころもち》で心細く
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