女中が、今しがたここから駈《か》け出して、玄関の来客を取次いだ草履が一ツ。ぞんざいに黒い裏を見せて引《ひっ》くり返っているのを、白い指でちょいと直し、素足に引懸《ひっか》け、がたり腰障子を左へ開けると、十時過ぎの太陽《ひ》が、向うの井戸端の、柳の上から斜《はす》っかけに、遍《あまね》く射込《さしこ》んで、俎《まないた》の上に揃えた、菠薐草《ほうれんそう》の根を、紅《くれない》に照らしたばかり。
多分はそれだろう、口真似《くちまね》をするのは、と当りをつけた御用聞きの酒屋の小僧は、どこにも隠れているのではなかった。
眉を顰《ひそ》めながら、その癖|恍惚《うっとり》した、迫らない顔色《かおつき》で、今度は口ずさむと言うよりもわざと試みにククと舌の尖《さき》で音を入れる。響に応じて、コロコロと行《や》ったが、こっちは一吹きで控えたのに、先方《さき》は発奮《はず》んだと見えて、コロコロコロ。
これを聞いて、屈《かが》んで、板へ敷く半纏《はんてん》の裙《すそ》を掻取《かいと》り、膝に挟んだ下交《したがい》の褄《つま》を内端《うちわ》に、障子腰から肩を乗出すようにして、つい目の前《さき》の、下水の溜りに目を着けた。
もとより、溝板《どぶいた》の蓋《ふた》があるから、ものの形は見えぬけれども、優《やさし》い連弾《つれびき》はまさしくその中。
笑《えみ》を含んで、クウクウと吹き鳴らすと、コロコロと拍子を揃えて、近づいただけ音を高く、調子が冴えてカタカタカタ!
「蛙だね。」
と莞爾《にっこり》した、その唇の紅を染めたように、酸漿を指に取って、衣紋《えもん》を軽《かろ》く拊《う》ちながら、
「憎らしい、お源や…………」
来て御覧、と呼ぼうとして、声が出たのを、圧《おさ》えて酸漿をまた吸った。
ククと吹く、カタカタ、ククと吹く、カタカタ、蝶々の羽で三味線《さみせん》の胴をうつかと思われつつ、静かに長《た》くる春の日や、お蔦の袖に二三寸。
「おう、」と突込《つっこ》んで長く引いた、遠くから威勢の可《い》い声。
来たのは江戸前の魚屋で。
二
ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、小柄《こがら》の可《い》い島田の女中が、逆上《のぼ》せたような顔色《かおつき》で、
「奥様、魚屋が参りました。」
「大きな声をおしでないよ。」
前へ
次へ
全214ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング