。
「貴娘は、先生のように癇性《かんしょう》で、寒の中《うち》も、井戸端へ持出して、ざあざあ水を使うんだから、こうやって洗うのにも心持は可《い》いけれども、その代り手を墨だらけにするんです。爪の間へ染みた日にゃ、ちょいとじゃ取れないんですからね。」
「厭ねえ、恩に被《き》せて。誰も頼みはしないんだわ。」
「恩に被せるんじゃありません。爪紅《つまべに》と云って、貴娘、紅をさしたような美《うつくし》い手の先を台なしになさるから、だから云うんです。やっぱり私が居た時分のように、お玄関の書生さんにしてお貰いなさいよ。
ああ、これは、」
と片頬笑《かたほえ》みして、
「余り上等な墨ではありませんな。」
「可いわ! どうせ安いんだわ。もう私がするから可《よ》くってよ。」
「手が墨だらけになりますと云うのに。貴娘そんな邪険な事を云って、私の手がお身代《みがわり》に立っている処じゃありませんか。」
「それでもね、こうやってお召物を持っている手も、随分、随分(と力を入れて、微笑んで、)迷惑してよ。」
「相変らずだ。(と独言《ひとりごと》のように云って、)ですが、何ですね、近頃は、大層御勉強でございますね。」
「どうしてね? 主税さん。」
「だって、明後日《あさって》お持ちなさろうという絵を、もう今日から御手廻しじゃありませんか。」
「翌日《あした》は日曜だもの、遊ばなくっちゃ、」
「ああ日曜ですね。」
と雫を払った、硯は顔も映りそう。熟《じっ》と見て振仰いで、
「その、衣兜《かくし》にあります、その半紙を取って下さい。」
「主税さん。」
「はあ、」
「ほほほほ、」とただ笑う。
「何が、可笑《おか》しいんです。え、顔に墨が刎《は》ねましたか。」
「いいえ、ほほほほ。」
「何ですてば、」
「あのね、」
「はあ。」
「もしかすると……」
「ええ、ええ。」
「ほほほ、翌日《あした》また日曜ね、貴郎《あなた》の許《とこ》へ遊びに行ってよ。」
水に映った主税の色は、颯《さっ》と薄墨の暗くなった。あわれ、仔細《しさい》あって、飯田町の家はもう無かったのである。
「いらっしゃいましとも。」
と勢込んで、思入った語気で答えた。
「あの、庭の白百合はもう咲いたの、」
「…………」
「この間行った時、まだ莟《つぼみ》が堅かったから、早く咲くように、おまじないに、私、フッフッとふくらまして来たけれ
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