で御飯が済むと、硯《すずり》を一枚、房楊枝《ふさようじ》を持添えて、袴を取ったばかり、くびれるほど固く巻いた扱帯《しごき》に手拭《てぬぐい》を挟んで、金盥《かなだらい》をがらん、と提げて、黒塗に萌葱《もえぎ》の綿天の緒の立った、歯の曲った、女中の台所|穿《ばき》を、雪の素足に突掛《つっか》けたが、靴足袋を脱いだままの裾短《すそみじか》なのをちっとも介意《かま》わず、水口から木戸を出て、日の光を浴びた状《さま》は、踊舞台の潮汲《しおくみ》に似て非なりで、藤間が新案の(羊飼。)と云う姿。
お妙は玄関|傍《わき》、生垣の前の井戸へ出て、乾いてはいたが辷《すべ》りのある井戸|流《ながし》へ危気《あぶなげ》も無くその曲った下駄で乗った。女中も居るが、母様の躾《しつけ》が可《い》いから、もう十一二の時分から膚《はだ》についたものだけは、人手には掛けさせないので、ここへは馴染《なじみ》で、水心があって、つい去年あたりまで、土用中は、遠慮なしにからからと汲み上げて、釣瓶《つるべ》へ唇を押附《おッつ》けるので、井筒の紅梅は葉になっても、時々|花片《はなびら》が浮ぶのであった。直《すぐ》に桃色の襷《たすき》を出して、袂を投げて潜《くぐ》らした。惜気の無い二の腕あたり、柳の絮《わた》の散るよと見えて、井戸縄が走ったと思うと、金盥へ入れた硯の上へ颯《さっ》とかかる、水が紫に、墨が散った。
宿墨を洗う気で、楊枝の房を、小指を刎《は》ねて※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りはじめたが、何を焦《じ》れたか、ぐいと引断《ひっちぎ》るように邪険である。
ト構内《かまえうち》の長屋の前へ、通勤《つとめ》に出る外、余り着て来た事の無い、珍らしい背広の扮装《いでたち》、何だか衣兜《かくし》を膨らまして、その上暑中でも持ったのを見懸けぬ、蝙蝠傘《こうもりがさ》さえ携えて、早瀬が前後《あとさき》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しながら、悄然《しょうぜん》として入って来たが、梅の許《もと》なるお妙を見る……
「おお、」
と慌《あわただ》しい、懐しげな声をかけて、
「お嬢さん。」
お妙はそれまで気がつかなかった。呼《よば》れて、手を留《とめ》て主税を見たが、水を汲んだ名残《なごり》か、顔の色がほんのりと、物いわぬ目は、露や、玉や、およそ声なく言《ことば》なき世の
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