よ。難有《ありがた》く思え、日傭取《ひようとり》のお職人様が月給取に謝罪《あやま》ったんだ。
 いつ出来た規則だか知らねえが、股《もも》ッたア出すなッてえ、肥満《ふと》った乳母《おんば》どんが焦《じれ》ッたがりゃしめえし、厭味ッたらしい言分だが、そいつも承知で乗ってるからにゃ、他様《ほかさま》の足を踏みゃ、引摺下《ひきずりおろ》される御法だ、と往生してよ。」
 と、車掌にひょこと頭を下げて、
「へいこら、と下りてやりゃ、何だ、掏摸だ。掏摸たア何でえ。」
 また礼之進に突懸《つっかか》る。

       三十四

「掏《す》られた、盗《と》られたッて、幾干《いくら》ばかり台所の小遣《いりよう》をごまかして来やあがったか知らねえけれど、汝《てめえ》がその面《つら》で、どうせなけなしの小遣だろう、落しっこはねえ。
 へん、鈍漢《のろま》。どの道、掏られたにゃ違えはねえが、汝がその間抜けな風で、内からここまで蟇口《がまぐち》が有るもんかい、疾《とっ》くの昔にちょろまかされていやあがったんだ。
 さあ、お目通りで、着物を引掉《ひっぷる》って神田児《かんだッこ》の膚合《はだあい》を見せてやらあ、汝が口説く婦《おんな》じゃねえから、見たって目の潰《つぶ》れる憂慮《きづけえ》はねえ、安心して切立《きったて》の褌《ふんどし》を拝みゃあがれ。
 ええこう、念晴しを澄ました上じゃ、汝《うぬ》、どうするか見ろ。」
「やあ、風が変った、風が変った。」
 と酒井は快活に云って、原《もと》の席に帰った。
 車掌台からどやどやと客が引込む、直ぐ後へ――見張員に事情を通じて、事件を引渡したと思われる――車掌が勢《いきおい》なく戻って、がちゃりと提革鞄《さげかばん》を一つ揺《ゆす》って、チチンと遣ったが、まだ残惜そうに大路に半身を乗出して人だかりの混々《ごたごた》揉むのを、通り過ぎ状《ざま》に見て進む。
 と錦帯橋《きんたいきょう》の月の景色を、長谷川が大道具で見せたように、ずらりと繋《つなが》って停留していた幾つとない電車は、大通りを廻り舞台。事の起った車内では、風説《うわさ》とりどり。
 あれは掏摸《すり》の術《て》でございます。はじめに恐入っていた様子じゃ、確に業《わざ》をしたに違いませんが、もう電車を下りますまでには同類の袂《たもと》へすっこかしにして、証拠が無いから逆捻《さかね》じを遣るで
前へ 次へ
全214ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング