ずらした。
「いえ、決して、その驚かし申すのではありません。それですから、弁天島の端なり、その……淡島の峯から、こうこの巌山を視《なが》めますと、本で見ました、仙境、魔界といった工合《ぐあい》で……どんなか、拍子で、この崖《がけ》に袖《そで》の長い女でも居ようものなら、竜宮から買ものに顕《あら》われたかと思ったもので。――前途《さき》の獅子浜、江の浦までは、大分前に通じましたが、口野からこちら……」
自動車は、既に海に張出した石の欄干を、幾処《いくところ》か、折曲り折曲りして通っていた。
「三津を長岡へ通じましたのは、ほんの近年のことで、それでも十二三年になりましょうか。――可笑《おかし》な話がございますよ。」
主人は、パッパッと二つばかり、巻莨《まきたばこ》を深く吸って、
「……この石の桟道が、はじめて掛《かか》りました。……まず、開通式といった日に、ここの村長――唯今《ただいま》でも存命で居ります――年を取ったのが、大勢と、村口に客の歓迎に出ておりました。県知事の一行が、真先《まっさき》に乗込んで見えた……あなた、その馬車――」
自動車の警笛に、繰返して、
「馬車が、真正面に、この桟道一杯になって大《おおき》く目に入ったと思召せ。村長の爺様《じいさま》が、突然|七八歳《ななやッつ》の小児《こども》のような奇声を上げて、(やあれ、見やれ、鼠《ねずみ》が車を曳《ひ》いて来た。)――とんとお話さ、話のようでございましてな。」
「やあ、しばらく!」
記者が、思わず声を掛けたのはこの時であった――
肩も胸も寄せながら、
「浪打際の山の麓《ふもと》を、向うから寄る馬車を見て――鼠が車を曳いて来た――成程、しかし、それは事実ですか。」
記者が何ゆえか意気込んだのを、主人は事もなげに軽く受けた。
「ははは、一つばなし。……ですが事実にも何にも――手前も隣郡のお附合、……これで徽章《きしょう》などを附けて立会いました。爺様の慌てたのを、現にそこに居て、存じております。が、別に不思議はありません。申したほどの嶮道《けんどう》で、駕籠《かご》は無理にもどうでしょうかな――その時七十に近い村長が、生れてから、いまだかつて馬というものの村へ入ったのを見たことがなかったのでございますよ。」
「馬を見て鼠……何だか故事がありそうで変ですが――はあ、そうすると、同時に、鼠が馬に
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