、真黒《まっくろ》な面《つら》がぬいと出ました。あ、この幽艶《ゆうえん》清雅な境へ、凄《すさ》まじい闖入者《ちんにゅうしゃ》! と見ると、ぬめりとした長い面が、およそ一尺ばかり、左右へ、いぶりを振って、ひゅっひゅっと水を捌《さば》いて、真横に私たちの方へ切って来る。鰌《どじょう》か、鯉《こい》か、鮒《ふな》か、鯰《なまず》か、と思うのが、二人とも立って不意に顔を見合わせた目に、歴々《ありあり》と映ると思う、その隙もなかった。
 ――馬じゃ……
 と居士が、太《ひど》く怯《おび》えた声で喚《わめ》いた。私もぎょっとして後《あと》へ退《さが》った。
 いや、嘘のような話です――遥《はるか》に蘆《あし》の湖《こ》を泳ぐ馬が、ここへ映ったと思ったとしてもよし、軍書、合戦記の昔をそのまま幻に視《み》たとしても、どっち道夢見たように、瞬間、馬だと思ったのは事実です。
 やあい、そこへ遁《に》げたい……泳いでらい、畜生々々。わんぱくが、四五人ばらばらと、畠《はたけ》の縁《へり》へ両方から、向う岸へ立ちました。
 ――鼠じゃ……鼠じゃ、畜生めが――
 と居士がはじめて言ったのです。ばしゃんばしゃん、氷柱《ひょうちゅう》のように水が刎《は》ねる、小児《こども》たちは続けさまに石を打った。この騒ぎに、植木屋も三人ばかり、ずッと来て、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ……と感に堪えて見ている。
 見事なものです。実際|巧《たくみ》に泳ぐ。が、およそ中流の処を乗切れない。向って前へ礫《つぶて》が落ちると、すっと引く。横へ飛ぶと、かわして避ける。避けつつ渡るのですから間がありました。はじめは首だけ浮いたのですが、礫を避けるはずみに飛んで浮くのが見えた時は可恐《おそろし》い兀斑《はげまだら》の大鼠で。畜生め、若い時は、一手《ひとて》、手裏剣も心得たぞ――とニヤニヤと笑いながら、居士が石を取って狙《ね》ったんです。小児《こども》の手からは、やや着弾距離を脱して、八方《はちぶ》こっちへ近づいた処を、居士が三度続けて打った。二度とも沈んで、鼠の形が水面から見えなくなっては、二度とも、むくむくと浮いて出て、澄ましてまた水を切りましたがね、あたった! と思う三度の時には、もう沈んだきり、それきりまるで見えなくなる。……
 水は清く流れました、が、風が少し出ましてね、何となくざっと鳴ると、……まさか、そこへ――水を潜
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