白粉《おしろい》だの、赤い油だのが、何となく匂って来ると――昔を偲《しの》ぶ、――いや、宿《しゅく》のなごりとは申す条、通り筋に、あらわな売色のかかる体裁は大《おおい》に風俗を害しますわい、と言う。その右斜《みぎななめ》な二階の廊下に、欄干に白い手を掛けて立っていた、媚《なまめ》かしい女があります。切組の板で半身です、が、少し伸上るようにしたから、帯腰がすらりと見える。……水浅葱《みずあさぎ》の手絡《てがら》で円髷《まるまげ》に艶々《つやつや》と結ったのが、こう、三島の宿を通りかかる私たちの上から覗《のぞ》くように少し乗出したと思うと、――えへん!……居士が大《おおき》な咳《せき》をしました。女がひょいと顔をそらして廂《ひさし》へうつむくと、猫が隣りから屋根づたいに、伝うのです。どうも割合に暑うごすと、居士は土耳古帽《トルコぼう》を取って、きちんと畳んだ手拭《てぬぐい》で、汗を拭《ふ》きましたっけ。……」
主人も何となく中折帽《なかおれぼう》の工合《ぐあい》を直して、そしてクスクスと笑った。
「御主人の前で、何も地理を説く要はない。――御修繕中でありました。神社へ参詣をして、裏門の森を抜けて、一度ちょっと田畝道《たんぼみち》を抜けましたがね、穀蔵《こくぐら》、もの置蔵などの並んだ処を通って、昔の屋敷町といったのへ入って、それから榎《えのき》の宮八幡宮――この境内が、ほとんど水源と申して宜《よろ》しい、白雪のとけて湧《わ》く処、と居士が言います。……榎は榎、大楠《おおくす》、老樫《ふるかし》、森々《しんしん》と暗く聳《そび》えて、瑠璃《るり》、瑪瑙《めのう》の盤、また薬研《やげん》が幾つも並んだように、蟠《わだかま》った樹の根の脈々、巌《いわ》の底、青い小石一つの、その下からも、むくむくとも噴出さず、ちろちろちろちろと銀の鈴の舞うように湧いています。不躾《ぶしつけ》ですが、御手洗《みたらし》で清めた指で触って見ました。冷い事、氷のようです。湧いて響くのが一粒ずつ、掌《てのひら》に玉を拾うそうに思われましたよ。
あとへ引返して、すぐ宮前の通《とおり》から、小橋を一つ、そこも水が走っている、門ばかり、家は形もない――潜門《くぐりもん》を押して入ると――植木屋らしいのが三四人、土をほって、運んでいました。」
――別荘の売りものを、料理屋が建直すのだったそうである。
「
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