、彼が肩に置いて、
「私を打《ぶ》つたね。――雨と水の世話をしに出て居た時、……」
 装《よそおい》は違つた、が、幻の目にも、面影《おもかげ》は、浦安《うらやす》の宮《みや》、石の手水鉢《ちょうずばち》の稚児《ちご》に、寸分のかはりはない。
「姫様、貴女《あなた》は。」
 と坊主が言つた。
「白山《はくさん》へ帰る。」

 あゝ、其の剣《けん》ヶ|峰《みね》の雪の池には、竜女《りゅうじょ》の姫神《ひめがみ》おはします。
「お馬。」
 と坊主が呼ぶと、スツと畳《たた》んで、貴女《きじょ》が地に落した涼傘《ひがさ》は、身震《みぶるい》をしてむくと起きた。手まさぐり給《たま》へる緋の総《ふさ》は、忽《たちま》ち紅《くれない》の手綱《たづな》に捌《さば》けて、朱の鞍《くら》置《お》いた白の神馬《しんめ》。
 ずつと騎《め》すのを、轡頭《くつわづな》を曳《ひ》いて、トトトト――と坊主が出たが、
「纏頭《しゅうぎ》をするぞ。それ、錦《にしき》を着て行け。」
 かなぐり脱いだ法衣《ころも》を投げると、素裸《すはだか》の坊主が、馬に、ひたと添ひ、紺碧《こんぺき》なる巌《いわお》の聳《そばだ》つ崕《がけ》を、翡翠《ひすい》の階子《はしご》を乗るやうに、貴女《きじょ》は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫《びょうぼう》たる曠野《ひろの》の中をタタタタと蹄《ひづめ》の音響《ひびき》。
 蹄を流れて雲が漲《みなぎ》る。……
 身を投じた紫玉の助かつて居たのは、霊沢金水《れいたくこんすい》の、巌窟《がんくつ》の奥である。うしろは五十万坪と称《とな》ふる練兵場《れんぺいじょう》。
 紫玉が、たゞ沈んだ水底《みなそこ》と思つたのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であつた。――
 雨を得た市民が、白身《はくしん》に破法衣《やれごろも》した女優の芸の徳に対する新たなる渇仰《かつごう》の光景《ようす》が見せたい。



底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
   1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
   1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
   1940(昭和15)年発行
初出:「婦女界」
   1920(大正9)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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