上だけれど、紋の着いた薄羽織《うすばおり》を引《ひっ》かけて居たが、扨《さ》て、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二|尺《しゃく》三|貫目《がんめ》は掛《かか》りませう。」とて、……及《およ》び腰《ごし》に覗《のぞ》いて魂消《たまげ》て居る若衆《わかいしゅ》に目配《めくば》せで頷《うなずか》せて、「恁《か》やうな大魚《たいぎょ》、然《しかし》も出世魚《しゅっせうお》と申す鯉魚《りぎょ》の、お船へ飛込《とびこ》みましたと言ふは、類希《たぐいまれ》な不思議な祥瑞《しょうずい》。おめでたう存じまする、皆、太夫様の御人徳《ごじんとく》。続きましては、手前|預《あずか》りまする池なり、所持の屋形船《やかたぶね》。烏滸《おこ》がましうござりますが、従つて手前どもも、太夫様の福分《ふくぶん》、徳分《とくぶん》、未曾有《みぞう》の御人気《ごにんき》の、はや幾分かおこぼれを頂戴《ちょうだい》いたしたも同じ儀で、恁《か》やうな心嬉しい事はござりませぬ。尚《な》ほ恁《か》くの通りの旱魃《かんばつ》、市内は素《もと》より近郷《きんごう》隣国《りんごく》、唯《ただ》炎の中に悶《もだ》えまする時、希有《けう》の大魚《たいぎょ》の躍《おど》りましたは、甘露《かんろ》、法雨《ほうう》やがて、禽獣《きんじゅう》草木《そうもく》に到るまでも、雨に蘇生《よみがえ》りまする前表《ぜんぴょう》かとも存じまする。三宝《さんぽう》の利益《りやく》、四方《しほう》の大慶《たいけい》。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝《こころいわ》ひに、此の鯉魚《こい》を肴《さかな》に、祝うて一|献《こん》、心ばかりの粗酒《そしゅ》を差上《さしあ》げたう存じまする。先《ま》づ風情《ふぜい》はなくとも、あの島影《しまかげ》にお船を繋《つな》ぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋《おもや》の方へ移しませう。」で、辞退も会釈もさせず、紋着《もんつき》の法然頭《ほうねんあたま》は、最《も》う屋形船の方へ腰を据《す》ゑた。
若衆《わかいしゅ》に取寄《とりよ》せさせた、調度を控へて、島の柳に纜《もや》つた頃は、然《そ》うでもない、汀《みぎわ》の人立《ひとだち》を遮《さえぎ》るためと、用意の紫《むらさき》の幕を垂れた。「神慮《しんりょ》の鯉魚《りぎょ》、等閑《なおざり》にはいたしますまい。略儀ながら不束《ふつつか》な田舎《いなか
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