ねつ》に対する氷の如く、十万の市民に、一|剤《ざい》、清涼の気を齎《もた》らして剰余《あまり》あつた。
膚《はだ》の白さも雪なれば、瞳《ひとみ》も露《つゆ》の涼しい中にも、挙《こぞ》つて座中《ざちゅう》の明星と称《たた》へられた村井紫玉《むらいしぎょく》が、
「まあ……前刻《さっき》の、あの、小さな児《こ》は?」
公園の茶店《ちゃみせ》に、一人|静《しずか》に憩《いこ》ひながら、緋塩瀬《ひしおぜ》の煙管筒《きせるづつ》の結目《むすびめ》を解掛《ときか》けつゝ、偶《ふ》と思つた。……
髷《まげ》も女優巻《じょゆうまき》でなく、故《わざ》とつい通りの束髪《そくはつ》で、薄化粧《うすげしょう》の淡洒《あっさり》した意気造《いきづくり》。形容《しな》に合せて、煙草入《たばこいれ》も、好みで持つた気組《きぐみ》の婀娜《あだ》。
で、見た処《ところ》は芸妓《げいしゃ》の内証歩行《ないしょあるき》と云ふ風だから、まして女優の、忍びの出、と言つても可《い》い風采《ふう》。
また実際、紫玉は此の日は忍びであつた。演劇《しばい》は昨日《きのう》楽《らく》に成つて、座の中には、直ぐに次興行《つぎこうぎょう》の隣国《りんごく》へ、早く先乗《さきのり》をしたのが多い。が、地方としては、此《これ》まで経歴《へめぐ》つた其処彼処《そこかしこ》より、観光に価値《あたい》する名所が夥《おびただし》い、と聞いて、中二日《なかふつか》ばかりの休暇《やすみ》を、紫玉は此の土地に居残《いのこ》つた。そして、旅宿《りょしゅく》に二人|附添《つきそ》つた、玉野《たまの》、玉江《たまえ》と云ふ女弟子も連れないで、一人で密《そっ》と、……日盛《ひざかり》も恁《こ》うした身には苦にならず、町中《まちなか》を見つゝ漫《そぞろ》に来た。
惟《おも》ふに、太平の世の国の守《かみ》が、隠れて民間に微行《びこう》するのは、政《まつりごと》を聞く時より、どんなにか得意であらう。落人《おちうど》の其《それ》ならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさへ、我名《わがな》を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、其の都度《つど》、ハツと隠れ忍んで、微笑《ほほえ》み/\通ると思へ。
深張《ふかばり》の涼傘《ひがさ》の影ながら、尚《な》ほ面影《おもかげ》は透き、色香《いろか》は仄《ほの》めく……心地《ここち》すれば、
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