灰吹《はいふき》に薄い唾《つば》した。
此の世盛《よざか》りの、思ひ上れる、美しき女優は、樹の緑|蝉《せみ》の声も滴《したた》るが如き影に、框《かまち》も自然《おのず》から浮いて高い処《ところ》に、色も濡々《ぬれぬれ》と水際立《みずぎわだ》つ、紫陽花《あじさい》の花の姿を撓《たわ》わに置きつゝ、翡翠《ひすい》、紅玉《ルビイ》、真珠など、指環を三《み》つ四《よ》つ嵌《は》めた白い指をツト挙げて、鬢《びん》の後毛《おくれげ》を掻いた次手《ついで》に、白金《プラチナ》の高彫《たかぼり》の、翼に金剛石《ダイヤ》を鏤《ちりば》め、目には血膸玉《スルウドストン》、嘴《くちばし》と爪に緑宝玉《エメラルド》の象嵌《ぞうがん》した、白く輝く鸚鵡《おうむ》の釵《かんざし》――何某《なにがし》の伯爵が心を籠《こ》めた贈《おくり》ものとて、人は知つて、(伯爵)と称《とな》ふる其の釵を抜いて、脚《あし》を返して、喫掛《のみか》けた火皿《ひざら》の脂《やに》を浚《さら》つた。……伊達《だて》の煙管《きせる》は、煙を吸ふより、手すさみの科《しぐさ》が多い慣習《ならい》である。
三味線|背負《しょ》つた乞食坊主が、引掻《ひっか》くやうにもぞ/\と肩を揺《ゆす》ると、一眼《いちがん》ひたと盲《し》ひた、眇《めっかち》の青ぶくれの面《かお》を向けて、恁《こ》う、引傾《ひっかたが》つて、熟《じっ》と紫玉の其の状《さま》を視《み》ると、肩を抽《ぬ》いた杖《つえ》の尖《さき》が、一度胸へ引込《ひっこ》んで、前屈《まえかが》みに、よたりと立つた。
杖を径《こみち》に突立《つきた》て/\、辿々《たどたど》しく下闇《したやみ》を蠢《うごめ》いて下《お》りて、城の方《かた》へ去るかと思へば、のろく後退《あとじさり》をしながら、茶店《ちゃみせ》に向つて、吻《ほっ》と、立直《たちなお》つて一息《ひといき》吐《つ》く。
紫玉の眉《まゆ》の顰《ひそ》む時、五|間《けん》ばかり軒《のき》を離れた、其処《そこ》で早《は》や、此方《こなた》へぐつたりと叩頭《おじぎ》をする。
知らない振《ふり》して、目をそらして、紫玉が釵《かんざし》に俯向《うつむ》いた。が、濃い睫毛《まつげ》の重く成るまで、坊主の影は近《ちかづ》いたのである。
「太夫様《たゆうさま》。」
ハツと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、目前《めさき》の土
前へ
次へ
全32ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング