た亀なのであった。
 枯蓮《かれはす》もばらばらと、折れた茎に、トただ一つ留ったのは、硫黄《いおう》ヶ島の赤蜻蛉《あかとんぼ》。
 鯡鯉《ひごい》の背は飜々《ひらひら》と、お珊の裳《もすそ》の影に靡《なび》く。
 居たのは、つい、橋の其方《そなた》であった。
 半襟は、黒に、蘆《あし》の穂が幽《かすか》に白い、紺地《こんのじ》によりがらみの細い格子、お召縮緬《めしちりめん》の一枚小袖、ついわざとらしいまで、不断着で出たらしい。コオトも着ない、羽織の色が、派手に、渋く、そして際立って、ぱっと目についた。
 髪の艶《つや》も、色の白さも、そのために一際目立つ、――糸織か、一楽《いちらく》らしいくすんだ中に、晃々《きらきら》と冴《さ》えがある、きっぱりした地の藍鼠《あいねずみ》に、小豆色《あずきいろ》と茶と紺と、すらすらと色の通った縞《しま》の乱立《らんたつ》。
 蒼空《あおぞら》の澄んだのに、水の色が袖に迫って、藍は青に、小豆は紅《くれない》に、茶は萌黄《もえぎ》に、紺は紫の隈《くま》を染めて、明《あかる》い中に影さすばかり。帯も長襦袢もこれに消えて、山深き処、年|古《ふ》る池に、ただその、すらりと雪を束《つか》ねたのに、霧ながら木《こ》の葉に綾《あや》なす、虹《にじ》を取って、細く滑《なめら》かに美しく、肩に掛けて背に捌《さば》き、腰に流したようである。汀《みぎわ》は水を取廻わして、冷い若木の薄もみじ。
 光線は白かった。

       十六

 その艶《えん》なのが、女《め》の童《わらわ》を従えた風で、奴《やっこ》と彳《たたず》む。……汀に寄って……流木《ながれぎ》めいた板が一枚、ぶくぶくと浮いて、苔塗《こけまみ》れに生簀《いけす》の蓋《ふた》のように見えるのがあった。日は水を劃《くぎ》って、その板の上ばかり、たとえば温かさを積重ねた心持にふわふわ当る。
 それへ、ほかほかと甲《こうら》を干した、木《こ》の葉に交って青銭の散った状《さま》して、大小の亀は十《と》ウ二十、磧《かわら》の石の数々居た。中には軽石のごときが交って。――
 いずれ一度は擒《とりこ》となって、供養にとて放された、が狭い池で、昔|売買《うりかい》をされたという黒奴《くろんぼ》の男女《なんにょ》を思出させる。島、海、沢、藪《やぶ》をかけた集り勢、これほどの数が込合ったら、月には波立ち、暗夜《やみ》には潜《ひそ》んで、ひそひそと身の上話がはじまろう。
 故郷《ふるさと》なる、何を見るやら、向《むき》は違っても一つ一つ、首を据えて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る。が、人も、もの言わず、活《いき》ものがこれだけ居て余りの静かさ。どれかが幽《かすか》に、えへん、と咳払《せきばらい》をしそうで寂《さみ》しい。
 一頭《ひとつ》、ぬっと、ざらざらな首を伸ばして、長く反《そ》って、汀を仰いだのがあった。心は、初阪等二人と斉《ひと》しく、絹糸の虹を視《なが》めたに違いない。
「気味の悪いもんですね、よく見るといかにも頭つきが似ていますぜ。」
 男衆は両手を池の上へ出しながら、橋の欄干に凭《もた》れて低声《こごえ》で云う。あえて忍音《しのびね》には及ばぬ事を。けれども、……ここで云うのは、直《じか》に話すほど、間近な人に皆聞える。
「まったく、魚《うお》じゃ鯔《ぼら》の面色《かおつき》が瓜二つだよ。」
 その何に似ているかは言わずとも知れよう。
「ああああ、板の下から潜出《もぐりだ》して、一つ水の中から顕《あらわ》れたのがあります。大分大きゅうがすせ。」
 成程、たらたらと漆《うるし》のような腹を正的《まとも》に、甲《こうら》に濡色の薄紅《うすべに》をさしたのが、仰向《あおむ》けに鰓《あぎと》を此方《こなた》へ、むっくりとして、そして頭の尖《さき》に黄色く輪取った、その目が凸《なかだか》にくるりと見えて、鱗《うろこ》のざらめく蒼味《あおみ》がかった手を、ト板の縁《ふち》へ突張《つッぱ》って、水から半分ぬい、と出た。
「大将、甲羅《こうら》干しに板へ出る気だ。それ乗ります。」
 と男衆の云った時、爪が外れて、ストンと落ちた。
 が、直ぐにすぼりと胸を浮かす。
「今度は乗るぜ。」
 やがて、甲羅を、残らず藻の上へ水から離して踏張《ふんば》った。が、力足らず、乗出した勢《いきおい》が余って、取外ずすと、ずんと沈む。
「や、不可《いけな》い。」
 たちまち猛然としてまた浮いた。
 で、のしり、のしりと板へ手をかけ、見るも不器用に、堅い体を伸上《のしあ》げる。
「しっかりしっかり、今度は大丈夫。あ、また辷《すべ》った。大事な処で。」と男衆は胸を乗出す。
 汀のお珊は、褄《つま》をすらりと足をちょいと踏替えた。奴島田《やっこしまだ》は、洋傘《こうもり》を畳んで支
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