お前さま、おだるけりゃ、お茶を取って進ぜますで。」「いいえ出ますから。」
娘が塗盆《ぬりぼん》に茶をのせて、「あの、栃《とち》の餅《もち》、あがりますか。」「駕籠屋さんたちにもどうぞ。」「はい。」――其処《そこ》に三人の客にも酒はない。皆栃の実の餅の盆を控えていた。
娘の色の白妙《しろたえ》に、折敷《おしき》の餅は渋《しぶ》ながら、五ツ、茶の花のように咲いた。が、私はやっぱり腹が痛んだ。
勘定の時に、それを言って断《ことわ》った。――「うまくないもののように、皆残して済みません。」ああ、娘は、茶碗を白湯《さゆ》に汲みかえて、熊の胆《い》をくれたのである。
私は、じっと視《み》て、そしてのんだ。
栃の餅を包んで差寄《さしよ》せた。「堅くなりましょうけれど、……あの、もう二度とお通りにはなりません。こんな山奥の、おはなしばかり、お土産《みやげ》に。――この実を入れて搗《つ》きますのです、あの、餅よりこれを、お土産に。」と、めりんすの帯の合せ目から、ことりと拾って、白い掌《て》で、こなたに渡した。
小さな鶏卵《たまご》の、軽く角《かど》を取って扁《ひら》めて、薄漆《うすうるし》を掛けたような、艶《つや》やかな堅い実である。
すかすと、きめに、うすもみじの影が映《うつ》る。
私はいつまでも持っている。
手箪笥《てだんす》の抽斗《ひきだし》深く、時々|思出《おもいだ》して手に据《す》えると、殻《から》の裡《なか》で、優《やさ》しい音《ね》がする。
底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
2001(平成13)年2月5日第21刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十七巻」岩波書店
1942(昭和17)年10月初版発行
初出:「新小説」
1924(大正13)年8月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:米田進、鈴木厚司
2003年3月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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