ん。
早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、傍《そば》で聞く俺が極《きま》りの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、――四の五の云うな、一も二もない――俺を棄てるか、婦《おんな》を棄てるか、さあ、どうだ――と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際《じんみらいざい》、俺は何とも、他《ほか》に言うべき言葉を知らん。
お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。
早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、確《たしか》に誓った。
お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は……それで立ちました。
早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分《ききわ》けてくれるんだね。
お蔦 肯分けないでどうしましょう。
早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。
お蔦 ですけれど……やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。
早瀬 また、そんな無理を言う。
お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。
早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。
お蔦 いいえ。
早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。
お蔦 …………
早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)
お蔦 いいますよ。(きれぎれに且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸に縋《すが》って、顔を見合わす。)
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※[#歌記号、1−3−28]見る度ごとに面痩《おもや》せて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
お蔦 見納めかねえ――それじゃ、お別れ申します。
早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子《かね》がある、……下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)
お蔦 (取ると斉《ひと》しく)手切れかい、失礼な、(と擲《なげう》たんとして、腕の萎《な》えたる状《さま》)あの、先生が下すったんですか。
早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。
お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形《まげがた》の包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄《うっちゃ》って行きたいけれど、それでは拗《す》ねるに当るから。
早瀬 で、お前はどうする。
お蔦 私より貴方は……そうね、お源坊が実体《じってい》に働きますから、当分我慢が出来ましょう。私……もう、やがて、船の胡瓜《きゅうり》も出るし、お前さんの好きなお香々《こうこう》をおいしくして食べさせて誉《ほ》められようと思ったけれど、……ああ何も言うのも愚痴《ぐち》らしい。あの、それよりか、お前さんは私にばかり我ままを云う癖に、遠慮深くって女中にも用はいいつけ得ないんだもの。……これからはね、思うように用をさして、不自由をなさいますな。……寝冷《ねびえ》をしては不可《いけ》ませんよ。私、山百合を買って来て、早く咲くのを見ようと思って、莟《つぼみ》を吹いて、ふくらましていたんですよ、水を遣《や》って下さいな……それから。
早瀬 (うつむいて頷《うなず》いてのみいる、堪《たま》りかねて)俺も世帯を持っちゃいないよ。お前にわかれて、何の洒落《しゃれ》に。
お蔦 まあ、どうして。
早瀬 それでなくッてさえ、掏賊《すり》の同類だ、あいずりだと、新聞で囃《はや》されて、そこらに、のめのめ居られるものか。長屋は藻《も》ぬけて、静岡へ駈落《かけおち》だ。少し考えた事もあるし、当分|引込《ひっこ》んでいようと思う。
お蔦 遠いわねえ。静岡ッて箱根のもッと先ですか。貴方がここに待っていて、石段を下りたばかりでさえ、気が急《せ》いてならなかったに、またいつ、お目にかかれるやら。(と膝にうつむく。)
早瀬 お蔦、お前は、それだから案じられる。忘れても一人でなんぞ、江戸の土を離れるな。静岡は箱根より遠いかは心細い。……ああ、親はなし、兄弟はなし、伯父叔母というものもなし、俺ばっかりをたよりにしたのに、せめて、従兄妹《いとこ》が一人ありゃ、俺は、こんな思いはしやしない!……よう、お蔦、そしてお前は当分どうするつもりだ。
お蔦 (顔を上ぐ)貴方こそ、水がわり、たべものに気をつけて下さいよ。私の事はそんなに案じないが可《よ》うござんす。小児《こども》の時から髪を結うのが好きで、商売をやめてから、御存じの通り、銀杏返《いちょうがえ》しなら人の手はかりませんし、お源の島田の真似もします。慰みに、お酌《しゃく》さんの桃割《ももわれ》なんか、お世辞にも誉《ほ》めら
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