お杉は端然《ちゃんと》坐ったまま、その髷《まげ》、その櫛《くし》、その姿で、小鍋をかけたまま凍ったもののごとし。
 ただいつの間にか、先刻《さっき》欽之助が脱いだままで置いて寝に行った、結城《ゆうき》の半纏《はんてん》を被《き》せかけてあった。とお杉はこれをいって今もさめざめと泣くのである。
 五助、作平は左右より、焦《いら》って二ツ三ツ背中をくらわすと、杉はアッといって、我に返ると同時に、
「おいらんが、遊女《おいらん》が、」と切なそうにいった。
 半纏はお若が心優しく、いまわの際にも勦《いたわ》ってその時かけて行ったのであろう。
 後にお杉はうつつながら、お若が目前《まのあたり》に湯を取りに来たことも、しかもまくり手して重そうに持って湯殿の方《かた》へ行ったことも、知っていたが、これよりさき朦朧《もうろう》として雪ぢらしの部屋着を被《き》た、品の可《い》い、脊の高い、見馴《みな》れぬ遊女《おいらん》が、寮の内を、あっちこっち、幾たびとなくお若の身に前後して、お杉が自分で立とうとすると、屹《きっ》と睨《にら》まれて身動きが出来ないのであったと謂《い》う。
 とこういうべき暇《いとま》あらず、我に復《かえ》るとお杉も太《いた》くお若の身を憂慮《きづか》っていたので、飛立つようにして三人奥の室《ま》へ飛込んだが、噫《ああ》。
 既に遅矣《おそし》、雪の姿も、紅梅も、狼藉《ろうぜき》として韓紅《からくれない》。
 狂気のごとくお杉が抱き上げた時、お若はまだ呼吸《いき》があったが、血の滴る剃刀を握ったまま、
「済みませんね、済みませんね。」と二声いったばかり、これはただ皮を切った位であったけれども暁を待たず。
 男は深疵《ふかで》だったけれども気が確《たしか》で、いま駆《かけ》つけた者を見ると、
「お前方、助けておくれ、大事な体だ。」
 といったので、五助作平、腰を抜いた。
 この事実は、翌早朝、金杉の方から裏へ廻って、寮の木戸へつけて、同一《おなじ》枕に死骸を引取って行った馬車と共によく秘密が守られた。
 しかし馬車で乗《のり》つけたのは、昨夜《ゆうべ》伊予紋へ、少将の夫人の使《つかい》をした、橘《たちばな》という女教師と、一名の医学士であった。
 その診察に因って救うべからずと決した時、次の室《ま》に畏《かしこま》っていた、二上屋藤三郎すなわちお若の養父から捧げられたお若の遺書《かきおき》がある。
 橘は取って披見した後に、枕頭《まくらもと》に進んで、声を曇らせながら判然《はっきり》と読んで聞かせた。
 この意味は、人の想像とちっとも違《たが》わぬ。
 その時まで残念だ、と呼吸《いき》の下でいって、いい続けて、時々|歯噛《はがみ》をしていた少年は、耳を澄《すま》して、聞き果てると、しばらくうっとりして、早や死の色の宿ったる蒼白《そうはく》な面《おもて》を和《やわら》げながら、手真似《てまね》をすること三度ばかり。
 医学士が頷《うなず》いたので、橘が筆をあてがうと、わずかに枕を擡《もた》げ、天地|紅《べに》の半|切《きれ》に、薄墨のあわれ水茎の蹟《あと》、にじり書《がき》の端に、わか※[#「参らせ候」のくずし字、519−15]《まいらせそろ》とある上へ、少し大きく、佳《い》い手で脇屋欽之助つま、と記して安かに目を瞑《ねむ》った。
 一座粛然。
 作平は啜泣《すすりなき》をしながら、
「おめでてえな。」
 五助が握拳《にぎりこぶし》を膝に置いて、
「お若さん、喜びねえ。」
[#地から1字上げ]明治三十四(一九〇一)年一月



底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店
   1941(昭和16)年11月10日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2009年5月10日作成
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