つ返事で快く引受けたから、図に乗ってもう一つ狐蕎麦《きつねそば》を[#「狐蕎麦」は底本では「孤蕎麦」]誂《あつら》えた。」
「上州のお客にはちょうど可いわね。」
「嫌味を云うなよ。……でも、お前は先《せん》から麺類《めんるい》を断《た》ってる事を知ってるから、てんのぬきを誂えたぜ。」
「まあ、嬉しい。」
と膝で確《しっか》りと手を取って、
「じゃ、あの、この炬燵の上へ盆を乗せて、お銚子をつけて、お前さん、あい、お酌って、それから私も飲んで。」
と熟《じっ》と顔を見つつ、
「願《ねがい》が叶《かな》ったわ、私。……一生に一度、お前さん、とそうして、お酒が飲みたかった。ああ、嬉しい。余り嬉しさに、わなわな震えて、野暮なお酌をすると口惜《くやし》い。稽古をするわ、私。……ちょっとその小さな掛花活《かけはないけ》を取って頂戴。」
「何にする。」
「お銚子を持つ稽古するの。」
「狂人染《きちがいじ》みた、何だな、お前。」
「よう、後生だから、一度だって私のいいなり次第になった事はないじゃありませんか。」
「はいはい、今夜の処《とこ》は御意次第。」
そこが地袋で、手が直ぐに、水仙が少しすがれて、摺《ず》って、危《あやう》く落ちそうに縋《すが》ったのを、密《そっ》と取ると、羽織の肩を媚《なまめ》かしく脱掛けながら、受取ったと思うと留める間もなく、ぐ、ぐ、と咽喉《のど》を通して一息に仰いで呑んだ。
「まあ、お染。」
「だって、ここが苦しいんですもの、」
と白い指で、わなわなと胸を擦《さす》った。
「ああ、旨《おいし》かった。さあ、お酌。いいえ、毒なものは上げはしません、ちょっと、ただ口をつけて頂戴。花にでも。」
「ままよ。」……構わず呑もうとすると雫《しずく》も無かった。
花を唇につけた時である。
「お酒が来たら、何にも思わないで、嬉しく飲みたい。……私、ほんとに伊香保では、酷《ひど》い、情《なさけ》ない目に逢ったの。
お前さんに逢って、皆《みんな》忘れたいと思うんだから、聞いて頂戴。……伊香保でね――すぐに一人旦那が出来たの。土地の請負師《うけおいし》だって云うのよ、頼みもしないのに無理に引かしてさ、石段の下に景ぶつを出す、射的《しゃてき》の店を拵《こしら》えてさ、そこに円髷《まるまげ》が居たんですよ。
この寒いのに、単衣《ひとえ》一つでぶるぶる震えて、あの……千葉の。先《せん》の呉服屋が来たんでしょう。可哀相でね、お金子《かね》を遣って旅籠屋《はたごや》を世話するとね、逗留《とうりゅう》をして帰らないから、旦那は不断女にかけると狂人《きちがい》のような嫉妬《やきもち》やきだし、相場師と云うのが博徒《ばくちうち》でね、命知らずの破落戸《ならずもの》の子分は多し、知れると面倒だから、次の宿《しゅく》まで、おいでなさいって因果を含めて、……その時|止《よ》せば可かったのに、湯に入ったのが悪かった。……帯を解いたのを見られたでしょう。
――染や、今日はいい天気だ、裏の山から隅田川が幽《かすか》に見えるのが、雪晴れの名所なんだ。一所に見ないかって誘うんですもの。
余り可懐《なつか》しさに、うっかり雪路《ゆきみち》を上《のぼ》ったわ。峠の原で、たぶさを取って引倒して、覚えがあろうと、ずるずると引摺《ひきず》られて、積った雪が摺《す》れる枝の、さいかちに手足が裂けて、あの、実の真赤《まっか》なのを見た時は、針の山に追上げられる雪の峠の亡者か、と思ったんですがね。それから……立樹に結《ゆわ》えられて、……」
「お染。」
「短刀で、こ、こことここを、あっちこっち、ぎらぎら引かれて身体《からだ》一面に血が流れた時は、……私、その、たらたら流れて胸から乳から伝うのが、渇きの留《とま》るほど嬉しかった。莞爾莞爾《にこにこ》したわ。何とも言えない可《い》い心持だったんですよ。お前さんに、お前さんに、……あの時、――一面に染まった事を思出して何とも言えない、いい心持だったの。この襦袢です。斬《き》られたのは、ここだの、ここだの、」
と俊吉の瞶《みは》る目に、胸を開くと、手巾《ハンケチ》を当てた。見ると、顔の色が真蒼《まっさお》になるとともに、垂々《ぽたぽた》と血に染まるのが、溢《あふ》れて、わななく指を洩《も》れる。
俊吉は突伏《つっぷ》した。
血はまだ溢れる、音なき雪のように、ぼたぼたと鳴って留《や》まぬ。
カーンと仏壇のりん[#「りん」に傍点]が響いた。
「旦那様、旦那様。」
「あ。」
と顔を上げると、誰も居ない。炬燵の上に水仙が落ちて、花活《はないけ》の水が点滴《したた》る。
俊吉は、駈下《かけお》りた。
遠慮して段の下に立った女中が驚きながら、
「あれ、まあ、お銚子がつきましてございますが。」
俊吉は呼吸《いき》がはずんで、
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