同じことを四五|度《たび》した。
 いいもの望みで、木賃を恥じた外聞ではない。……巡礼の笈《おい》に国々の名所古跡の入ったほど、いろいろの影について廻った三年ぶりの馴染《なじみ》に逢う、今、現在、ここで逢うのに無事では済むまい、――お互に降って湧《わ》くような事があろう、と取越苦労の胸騒《むなさわぎ》がしたのであった。
「御免。」
 と思切って声を掛けた時、俊吉の手は格子を圧《おさ》えて、そして片足|遁構《にげがま》えで立っていた。
「今晩は。」
「はい、今晩は。」
 と平べったい、が切口上で、障子を半分開けたのを、孤家《ひとつや》の婆々《ばばあ》かと思うと、たぼの張った、脊の低い、年紀《とし》には似ないで、頸《くび》を塗った、浴衣の模様も大年増。
 これが女房とすぐに知れた。
 俊吉は、ト御神燈の灯を避《よ》けて、路地の暗い方へ衝《つッ》と身を引く。
 白粉《おしろい》のその頸を、ぬいと出額《おでこ》の下の、小慧《こざか》しげに、世智辛く光る金壺眼《かなつぼまなこ》で、じろりと見越して、
「今晩は。誰方様《どなたさま》で?」
「お宅に染次ってのは居《お》りますか。」
「はい居りますでございますが。」
 と立塞《たちふさ》がるように、しかも、遁《にが》すまいとするように、框《かまち》一杯にはだかるのである。
「ちょっとお呼び下さいませんか。」
 ああ、来なければ可《よ》かった、奥も無さそうなのに、声を聞いて出て来ないくらいなら、とがっくり泥濘《ぬかるみ》へ落ちた気がする。
「唯今《ただいま》お湯へ参ってますがね、……まあ、貴方《あなた》。」と金壺眼はいよいよ光った。
「それじゃまた来ましょう。」
「まあ、貴方。」
 風体を見定めたか、慌《あわただ》しく土間へ片足を下ろして、
「直《じ》きに帰りますから、まあ、お上んなさいまし。」
「いや、途中で困ったから傘を借りたいと思ったんですが、もう雨も上りましたよ。」
「あら、貴方、串戯《じょうだん》じゃありません。私が染ちゃんに叱られますわ、お帰し申すもんですかよ。」

       七

「相合傘でいらっしゃいまし、染ちゃん、嬉しいでしょう、えへへへへ、貴方、御機嫌よう。」
 と送出した。……
 傘《からかさ》は、染次が褄《つま》を取ってさしかける。
「可厭《いや》な媽々《かかあ》だな。」
「まだ聞えますよ。」
 と下へ、
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