ま》じき大濤《おおなみ》の雪の風情を思いながら、旅の心も身に沁《し》みて通過ぎました。
 畷道《なわてみち》少しばかり、菜種の畦《あぜ》を入った処に、志す庵《いおり》が見えました。侘《わび》しい一軒家の平屋ですが、門《かど》のかかりに何となく、むかしの状《さま》を偲《しの》ばせます、萱葺《かやぶき》の屋根ではありません。
 伸上る背戸に、柳が霞んで、ここにも細流《せせらぎ》に山吹の影の映るのが、絵に描いた蛍の光を幻に見るようでありました。
 夢にばかり、現《うつつ》にばかり、十幾年。
 不思議にここで逢いました――面影は、黒髪に笄《こうがい》して、雪の裲襠《かいどり》した貴夫人のように遥《はるか》に思ったのとは全然《まるで》違いました。黒繻子《くろじゅす》の襟のかかった縞《しま》の小袖に、ちっとすき切れのあるばかり、空色の絹のおなじ襟のかかった筒袖《こいぐち》を、帯も見えないくらい引合せて、細《ほっそ》りと着ていました。
 その姿で手をつきました。ああ、うつくしい白い指、結立《ゆいた》ての品のいい円髷《まるまげ》の、情《なさけ》らしい柔順《すなお》な髱《たぼ》の耳朶《みみたぶ》かけて、雪なす項《うなじ》が優しく清らかに俯向《うつむ》いたのです。
 生意気に杖《ステッキ》を持って立っているのが、目くるめくばかりに思われました。
「私は……関……」
 と名を申して、
「蔦屋さんのお嬢さんに、お目にかかりたくて参りました。」
「米は私《わたくし》でございます。」
 と顔を上げて、清《すず》しい目で熟《じっ》と視《み》ました。
 私の額は汗ばんだ。――あのいつか額に置かれた、手の影ばかり白く映る。
「まあ、関さん。――おとなにおなりなさいました……」
 これですもの、可懐《なつかし》さはどんなでしょう。
 しかし、ここで私は初恋、片おもい、恋の愚痴《ぐち》を言うのではありません。
 ……この凄《すご》い吹雪の夜《よ》、不思議な事に出あいました、そのお話をするのであります。

       四

 その時は、四畳半《かこい》ではありません。が、炉を切った茶の室《ま》に通されました。
 時に、先客が一人ありまして炉の右に居ました。気高いばかり品のいい年とった尼さんです。失礼ながら、この先客は邪魔でした。それがために、いとど拙《つたな》い口の、千の一つも、何にも、ものが言われなかったのであります。
「貴女《あなた》は煙草《たばこ》をあがりますか。」
 私はお米さんが、その筒袖《こいぐち》の優しい手で、煙管《きせる》を持つのを視《み》てそう言いました。
 お米さんは、控えてちょっと俯向《うつむ》きました。
「何事もわすれ草と申しますな。」
 と尼さんが、能の面がものを言うように言いました。
「関さんは、今年三十五におなりですか。」
 とお米さんが先へ数えて、私の年を訊《たず》ねました。
「三碧《さんぺき》のう。」
 と尼さんが言いました。
「貴女は?」
「私は一つ上……」
「四緑《しろく》のう。」
 と尼さんがまた言いました。
 ――略して申すのですが、そこへ案内もなく、ずかずかと入って来て、立状《たちざま》にちょっと私を尻目にかけて、炉の左の座についた一|人《にん》があります――山伏か、隠者か、と思う風采《ふうさい》で、ものの鷹揚《おうよう》な、悪く言えば傲慢《ごうまん》な、下手が画《え》に描いた、奥州めぐりの水戸の黄門といった、鼻の隆《たか》い、髯《ひげ》の白い、早や七十ばかりの老人でした。
「これは関さんか。」
 と、いきなり言います。私は吃驚《びっくり》しました。
 お米さんが、しなよく頷《うなず》きますと、
「左様か。」
 と言って、これから滔々《とうとう》と弁じ出した。その弁ずるのが都会における私ども、なかま、なかまと申して私などは、ものの数でもないのですが、立派な、画の画伯方《せんせいがた》の名を呼んで、片端《かたっぱし》から、奴《やつ》がと苦り、あれめ、と蔑《さげす》み、小僧、と呵々《からから》と笑います。
 私は五六尺|飛退《とびさが》って叩頭《おじぎ》をしました。
「汽車の時間がございますから。」
 お米さんが、送って出ました。花菜の中を半《なかば》の時、私は香に咽《むせ》んで、涙ぐんだ声して、
「お寂しくおいでなさいましょう。」
 と精一杯に言ったのです。
「いいえ、兄が一緒ですから……でも大雪の夜《よ》なぞは、町から道が絶えますと、ここに私一人きりで、五日も六日も暮しますよ。」
 とほろりとしました。
「そのかわり夏は涼しゅうございます。避暑にいらっしゃい……お宿をしますよ。……その時分には、降るように蛍が飛んで、この水には菖蒲《あやめ》が咲きます。」

 夜汽車の火の粉が、木の芽峠を蛍に飛んで、窓にはその菖蒲が咲いたのです――夢のようです。……あの老尼は、お米さんの守護神《まもりがみ》――はてな、老人は、――知事の怨霊《おんりょう》ではなかったか。
 そんな事まで思いました。
 円髷《まるまげ》[#ルビの「まるまげ」は底本では「まるはげ」]に結って、筒袖《こいぐち》を着た人を、しかし、その二人はかえって、お米さんを秘密の霞に包みました。
 三十路《みそじ》を越えても、窶《やつ》れても、今もその美しさ。片田舎の虎杖になぞ世にある人とは思われません。
 ために、音信《おとずれ》を怠りました。夢に所がきをするようですから。……とは言え、一つは、日に増し、不思議に色の濃くなる炉の右左の人を憚《はばか》ったのであります。
 音信して、恩人に礼をいたすのに仔細《しさい》はない筈《はず》。けれども、下世話にさえ言います。慈悲すれば、何とかする。……で、恩人という、その恩に乗じ、情《なさけ》に附入るような、賤《いや》しい、浅ましい、卑劣な、下司《げす》な、無礼な思いが、どうしても心を離れないものですから、ひとり、自ら憚られたのでありました。
 私は今、そこへ――

       五

「ああ、あすこが鎮守だ――」
 吹雪の中の、雪道に、白く続いたその宮を、さながら峰に築いたように、高く朦朧《もうろう》と仰ぎました。
「さあ、一息。」
 が、その息が吐《つ》けません。
 真俯向《まうつむ》けに行く重い風の中を、背後《うしろ》からスッと軽く襲って、裾《すそ》、頭《かしら》をどッと可恐《おそろし》いものが引包むと思うと、ハッとひき息になる時、さっと抜けて、目の前へ真白《まっしろ》な大《おおき》な輪の影が顕《あらわ》れます。とくるくると廻るのです。廻りながら輪を巻いて、巻き巻き巻込めると見ると、たちまち凄《すさま》じい渦になって、ひゅうと鳴りながら、舞上って飛んで行《ゆ》く。……行くと否や、続いて背後《うしろ》から巻いて来ます。それが次第に激しくなって、六ツ四ツ数えて七ツ八ツ、身体《からだ》の前後に列を作って、巻いては飛び、巻いては飛びます。巌《いわ》にも山にも砕けないで、皆北海の荒波の上へ馳《はし》るのです。――もうこの渦がこんなに捲《ま》くようになりましては堪えられません。この渦の湧立《わきた》つ処は、その跡が穴になって、そこから雪の柱、雪の人、雪女、雪坊主、怪しい形がぼッと立ちます。立って倒れるのが、そのまま雪の丘のようになる……それが、右になり、左になり、横に積り、縦に敷きます。その行く処、飛ぶ処へ、人のからだを持って行って、仰向《あおむ》けにも、俯向《うつむか》せにもたたきつけるのです。
 ――雪難之碑。――峰の尖《とが》ったような、そこの大木の杉の梢《こずえ》を、睫毛《まつげ》にのせて倒れました。私は雪に埋れて行《ゆ》く……身動きも出来ません。くいしばっても、閉じても、目口に浸《し》む粉雪《こゆき》を、しかし紫陽花《あじさい》の青い花片《はなびら》を吸うように思いました。
 ――「菖蒲《あやめ》が咲きます。」――
 蛍が飛ぶ。
 私はお米さんの、清く暖《あたたか》き膚《はだ》を思いながら、雪にむせんで叫びました。
「魔が妨げる、天狗《てんぐ》の業《わざ》だ――あの、尼さんか、怪しい隠士か。」
[#地から1字上げ]大正十(一九二一)年四月



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十一卷」岩波書店
   1941(昭和16)年9月30日
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2005年11月1日作成
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