、二ツ三ツものいえりし間《ま》に、これは疲れて転寝《うたたね》せり。
 何なりけむ。ものともなく膚《はだえ》あわだつに、ふと顔をあげたれば、ありあけ暗き室のなかにミリヤアドの双の眼《まなこ》、はき[#「はき」に傍点]とあきて、わが方《かた》を見詰めいたり。
 予が見て取りしを彼方《かなた》にもしかと見き。ものいうごとき瞳の動き、引寄するように思われたれば、掻巻|刎《は》ねのけて立ちて、進み寄りぬ。
 近よれという色見ゆ。
 やがてその前に予は手をつきぬ。あまり気高かりし状《さま》に恐しき感ありき。
「高津さん。」
「少し休みましたようです。」
「そう。」
 とばかりいきをつきぬ。やや久しゅうして、
「上杉さん、あなたどうします。」
 予は思わずわななきぬ。
「何を、ミリヤアド。」
「私《わたくし》なくなりますと、あなたどうします。」
 涙ながら、
「そんなことおっしゃるもんじゃありません。」
「いいえ、どうします。」と強くいえり。
「そんなことを、僕は知りません。」
「知らない、いけません、みんな知っている。かわいそうで、眠られません。眠られません。上杉さん、私《わたくし》、頼みます、秀、秀。」
 予は頭《こうべ》より氷を浴ぶる心地したりき。折から風の音だもあらず、有明の燈影《とうえい》いと幽《かすか》に、ミリヤアドが目に光さしたり。
「秀さんのこと思わないで、勉強して、ね、上杉さん。」
 予は伏沈《ふししず》みぬ。
「かわいそう、かわいそうですけれども、私《わたくし》、こんな、こんな、病気になりました。仕方がない、あなたどうします。かわいそうで、安心して死なれません。苦しい、苦しい、かわいそうと思いませんか。私、あなたをかわいがりました。私を、私を、かわいそうとは思いませんか。」
 一しきり、また凩《こがらし》の戸にさわりて、ミリヤアドの顔|蒼《あお》ざめぬ。その眉|顰《ひそ》み、唇ふるいて、苦痛を忍び瞼《まぶた》を閉じしが、十分《じっぷん》時《じ》過ぎつと思うに、ふとまた明らかに※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》けり。
「肯《き》きませんか。あなた、私《わたくし》を何と思います。」
 と切なる声に怒《いかり》を帯びたる、りりしき眼の色恐しく、射竦《いすく》めらるる思《おもい》あり。
 枕に沈める横顔の、あわれに、貴く、うつくしく、気だかく、清き芙蓉《ふよう》の花片《はなびら》、香《こう》の煙に消ゆよとばかり、亡き母上のおもかげをば、まのあたり見る心地しつ。いまはハヤ何をかいわむ。
「母上《おっかさん》。」
 と、ミリヤアドの枕の許《もと》に僵《たお》れふして、胸に縋《すが》りてワッと泣きぬ。
 誓えとならば誓うべし。
「どうぞ、早く、よくなって、何にも、ほかに申しません。」
 ミリヤアドは目を塞《ふさ》ぎぬ。また一しきり、また一しきり、刻むがごとき戸外《おもて》の風。
 予はあわただしく高津を呼びぬ。二人が掌《たなそこ》左右より、ミリヤアドの胸おさえたり。また一しきり、また一しきり大空をめぐる風の音。
「ミリヤアド。」
「ミリヤアド。」
 目はあきらかにひらかれたり。また一しきり、また一しきり、夜《よ》深くなりゆく凩の風。
 神よ、めぐませたまえ、憐みたまえ、亡き母上。
[#地から1字上げ]明治三十(一八九七)年一月



底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
   1942(昭和17)年9月30日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年10月23日作成
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