るぼうで汲《く》み得《え》らるゝ。石疊《いしだたみ》で穿下《ほりおろ》した合目《あはせめ》には、此《こ》のあたりに産《さん》する何《なん》とかいふ蟹《かに》、甲良《かふら》が黄色《きいろ》で、足《あし》の赤《あか》い、小《ちひ》さなのが數限《かずかぎり》なく群《むらが》つて動《うご》いて居《ゐ》る。毎朝《まいあさ》此《こ》の水《みづ》で顏《かほ》を洗《あら》ふ、一|杯《ぱい》頭《あたま》から浴《あ》びようとしたけれども、あんな蟹《かに》は、夜中《よなか》に何《なに》をするか分《わか》らぬと思《おも》つてやめた。
門《もん》を出《で》ると、右左《みぎひだり》、二畝《ふたうね》ばかり慰《なぐさ》みに植《う》ゑた青田《あをた》があつて、向《むか》う正面《しやうめん》の畦中《あぜなか》に、琴彈松《ことひきまつ》といふのがある。一昨日《をとつひ》の晩《ばん》宵《よひ》の口《くち》に、其《そ》の松《まつ》のうらおもてに、ちら/\灯《ともしび》が見《み》えたのを、海濱《かいひん》の別莊《べつさう》で花火《はなび》を焚《た》くのだといひ、否《いや》、狐火《きつねび》だともいつた。其《そ》の時《とき》は濡《ぬ》れたやうな眞黒《まつくろ》な暗夜《やみよ》だつたから、其《そ》の灯《ひ》で松《まつ》の葉《は》もすら/\と透通《すきとほ》るやうに青《あを》く見《み》えたが、今《いま》は、恰《あたか》も曇《くも》つた一面《いちめん》の銀泥《ぎんでい》に描《ゑが》いた墨繪《すみゑ》のやうだと、熟《ぢつ》と見《み》ながら、敷石《しきいし》を蹈《ふ》んだが、カラリ/\と日和下駄《ひよりげた》の音《おと》の冴《さ》えるのが耳《みゝ》に入《はひ》つて、フと立留《たちとま》つた。
門外《おもて》の道《みち》は、弓形《ゆみなり》に一條《ひとすぢ》、ほの/″\と白《しろ》く、比企《ひき》ヶ谷《やつ》の山《やま》から由井《ゆゐ》ヶ濱《はま》の磯際《いそぎは》まで、斜《なゝめ》に鵲《かさゝぎ》の橋《はし》を渡《わた》したやう也《なり》。
ハヤ浪《なみ》の音《おと》が聞《きこ》えて來《き》た。
濱《はま》の方《はう》へ五六|間《けん》進《すゝ》むと、土橋《どばし》が一架《ひとつ》、並《なみ》の小《ちひ》さなのだけれども、滑川《なめりがは》に架《かゝ》つたのだの、長谷《はせ》の行合橋《ゆきあひばし》だのと、おなじ名《な》に聞《きこ》えた亂橋《みだればし》といふのである。
此《こ》の上《うへ》で又《ま》た立停《たちとま》つて前途《ゆくて》を見《み》ながら、由井《ゆゐ》ヶ濱《はま》までは、未《ま》だ三|町《ちやう》ばかりあると、つく/″\然《さ》う考《かんが》へた。三|町《ちやう》は蓋《けだ》し遠《とほ》い道《みち》ではないが、身體《からだ》も精神《せいしん》も共《とも》に太《いた》く疲《つか》れて居《ゐ》たからで。
しかし其《その》まゝ素直《まつすぐ》に立《た》つてるのが、餘《あま》り辛《つら》かつたから又《ま》た歩《ある》いた。
路《みち》の兩側《りやうがは》しばらくのあひだ、人家《じんか》が斷《た》えては續《つゞ》いたが、いづれも寢靜《ねしづ》まつて、白《しら》けた藁屋《わらや》の中《なか》に、何家《どこ》も何家《どこ》も人《ひと》の氣勢《けはひ》がせぬ。
其《そ》の寂寞《せきばく》を破《やぶ》る、跫音《あしおと》が高《たか》いので、夜更《よふけ》に里人《さとびと》の懷疑《うたがひ》を受《う》けはしないかといふ懸念《けねん》から、誰《たれ》も咎《とが》めはせぬのに、拔足《ぬきあし》、差足《さしあし》、音《おと》は立《た》てまいと思《おも》ふほど、なほ下駄《げた》の響《ひゞき》が胸《むね》を打《う》つて、耳《みゝ》を貫《つらぬ》く。
何《なに》か、自分《じぶん》は世《よ》の中《なか》の一切《すべて》のものに、現在《いま》、恁《か》く、悄然《しよんぼり》、夜露《よつゆ》で重《おも》ツくるしい、白地《しろぢ》の浴衣《ゆかた》の、しほたれた、細《ほそ》い姿《すがた》で、首《かうべ》を垂《た》れて、唯一人《たゞひとり》、由井《ゆゐ》ヶ濱《はま》へ通《つう》ずる砂道《すなみち》を辿《たど》ることを、見《み》られてはならぬ、知《し》られてはならぬ、氣取《けど》られてはならぬといふやうな思《おもひ》であるのに、まあ!廂《ひさし》も、屋根《やね》も、居酒屋《ゐざかや》の軒《のき》にかゝつた杉《すぎ》の葉《は》も、百姓屋《ひやくしやうや》の土間《どま》に据《す》ゑてある粉挽臼《こなひきうす》も、皆《みな》目《め》を以《もつ》て、じろじろ睨《ね》めるやうで、身《み》の置處《おきどころ》ないまでに、右《みぎ》から、左《ひだり》から、路《みち》をせばめられて、しめつけられて、小《ちひ
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