、果のない蒼海《あおうみ》の浪に、あわれ果敢《はかな》い、弱い、力のない、身体|単個《ひとつ》弄《もてあそ》ばれて、刎返《はねかえ》されて居るのだ、と心着《こころづ》いて悚然《ぞっ》とした。
 時に大浪が、一《ひと》あて推寄《おしよ》せたのに足を打たれて、気も上《うわ》ずって蹌踉《よろ》けかかった。手が、砂地に引上《ひきあ》げてある難破船の、纔《わず》かにその形を留《とど》めて居る、三十|石積《こくづみ》と見覚えのある、その舷《ふなばた》にかかって、五寸釘をヒヤヒヤと掴《つか》んで、また身震《みぶるい》をした。下駄はさっきから砂地を駆《か》ける内に、いつの間にか脱いでしまって、跣足《はだし》である。
 何故《なぜ》かは知らぬが、この船にでも乗って助かろうと、片手を舷に添えて、あわただしく擦上《すりあが》ろうとする、足が砂を離れて空《くう》にかかり、胸が前屈《まえかが》みになって、がっくり俯向《うつむ》いた目に、船底に銀のような水が溜《たま》って居るのを見た。
 思わずあッといって失望した時、轟々《ごうごう》轟《ごう》という波の音。山を覆《くつがえ》したように大畝《おおうねり》が来たとばかりで、――跣足《はだし》で一文字《いちもんじ》に引返《ひきかえ》したが、吐息《といき》もならず――寺の門を入ると、其処《そこ》まで隙間《すきま》もなく追縋《おいすが》った、灰汁《あく》を覆《かえ》したような海は、自分の背《せなか》から放れて去《い》った。
 引き息で飛着《とびつ》いた、本堂の戸を、力まかせにがたひしと開ける、屋根の上で、ガラガラという響《ひびき》、瓦《かわら》が残らず飛上《とびあが》って、舞立《まいた》って、乱合《みだれあ》って、打破《うちやぶ》れた音がしたので、はッと思うと、目が眩《くら》んで、耳が聞えなくなった。が、うッかりした、疲《つか》れ果《は》てた、倒《たお》れそうな自分の体は、……夢中で、色の褪《あ》せた、天井の低い、皺《しわ》だらけな蚊帳《かや》の片隅《かたすみ》を掴《つか》んで、暗くなった灯《ひ》の影に、透《す》かして蚊帳の裡《うち》を覗《のぞ》いた。
 医学生は肌脱《はだぬぎ》で、うつむけに寝て、踏返《ふみかえ》した夜具《やぐ》の上へ、両足を投懸《なげか》けて眠って居る。
 ト枕を並べ、仰向《あおむけ》になり、胸の上に片手を力なく、片手を投出し、足をのばして、口を結んだ顔は、灯の片影《かたかげ》になって、一人すやすやと寝て居るのを、……一目見ると、それは自分であったので、天窓《あたま》から氷を浴びたように筋《すじ》がしまった。
 ひたと冷《つめた》い汗になって、眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》き、殺されるのであろうと思いながら、すかして蚊帳の外を見たが、墓原をさまよって、乱橋から由井ヶ浜をうろついて死にそうになって帰って来た自分の姿は、立って、蚊帳に縋《すが》っては居なかった。
 もののけはいを、夜毎《よごと》の心持《こころもち》で考えると、まだ三時には間《ま》があったので、最《も》う最うあたまがおもいから、そのまま黙って、母上の御名《おんな》を念じた。――人は恁《こ》ういうことから気が違うのであろう。



底本:「書物の王国11 分身」国書刊行会
   1999(平成11)年1月22日初版第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第四卷」岩波書店
   1941(昭和16)年3月15日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2006年3月20日作成
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