煙を吹きながら、目ばかり出したその清い目で、一場《いちじょう》の光景を屹《きっ》と瞻《みまも》っていたことを。――されば婆さんは今その事について何にも言わなかったが、実はこの媼《おうな》、お米に椅子を払って招じられると、帯の間《あい》からぬいと青切符をわざとらしく抜出して手に持ちながら、勿体ない私《わたくし》風情がといいいい貴夫人の一行をじろりと※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》し、躙《にじ》り寄って、お米が背後《うしろ》に立った前の処、すなわち旧《もと》の椅子に直って、そして手を合せて小間使を拝んだので、一行が白け渡ったのまで見て知っている位であるから、この間のこの茶店における会合は、娘と婆さんとには不意に顔の合っただけであるけれども、判事に取っては蓋《けだ》し不思議のめぐりあいであった。
 かく停車場《ステエション》にお幾が演じた喜劇を知っている判事には、婆さんの昔の栄華も、俳優《やくしゃ》を茶屋の二階へ呼びなどしたことのある様子も、この寂寞《せきばく》の境に堪え得て一人で秋冬を送るのも、全体を通じて思い合さるる事ばかりであるが、可《よ》し、それもこれも判事がお米に対する心の秘密とともに胸に秘めて何事も謂《い》わず、ただ憂慮《きづか》わしいのは女の身の上、聞きたいのは婆《ばば》が金貨を頂かせられて、――
「それから、お前がその金子《かね》を見せてもらうと、」
 促して尋ねると、意外千万、
「そのお金が五百円、その晩お手箪笥《てだんす》の抽斗《ひきだし》から出してお使いなさろうとするとすっかり紛失をしていたのでございます、」と句切って、判事の顔を見て婆さんは溜息《ためいき》を吐《つ》いたが、小山も驚いたのである。
 赤羽|停車場《ステエション》の婆さんの挙動と金貨を頂かせた奥方の所為《しわざ》とは不言不語《いわずかたらず》の内に線を引いてそれがお米の身に結ばれるというような事でもあるだろうと、聞きながら推したに、五百円が失《う》せたというのは思いがけない極《きわみ》であった。
「ええ、すっかり紛失?」と判事も屹《きっ》と目を瞠《みは》ったが、この人々はその意気において、五という数《すう》が、百となって、円とあるのに慌てるような風ではない。
「まあどうしたというのでございますか、抽斗にお了《しま》いなすったのは私《わたくし》もその時見ておりましたのに、こりゃ聞いてさえ吃驚《びっくり》いたしますものお邸では大騒ぎ。女などは髪切《かみきれ》の化物が飛び込んだように上を下、くるくる舞うやらぶつかるやら、お米なども蒼くなって飛んで参って、私にその話をして行きましたっけ。
 さあ二日|経《た》っても三日経っても解りますまい、貴夫人とも謂われるものが、内からも外からも自分の家のことに就いて罪人は出したくないとおっしゃって、表沙汰にはなりませんが、とにかく、不取締でございますから、旦那に申訳がないとのことで大層御心配、お見舞に伺いまする出入のものに、纔《わずか》ばかりだけれども纔ばかりだけれどもと念をお入れなすっちゃあ、その御吹聴《ごふいちょう》で。
 そういたしますとね、日頃お出入の大八百屋の亭主で佐助と申しまして、平生は奉公人大勢に荷を担がせて廻らせて、自分は帳場に坐っていて四ツ谷切って手広く行《や》っておりまするのが、わざわざお邸へ出て参りまして、奥様に勧めました。さあこれが旦那様、目黒、堀ノ内、渋谷、大久保、この目黒|辺《あたり》をかけて徘徊《はいかい》をいたします、真夜中には誰とも知らず空のものと談話《はなし》をしますという、鼻の大きな、爺《じじい》の化精《ばけもの》でございまして。」

       八

「旦那様、この辺をお通り遊ばしたことがございますなら、田舎道などでお見懸けなさりはしませんか。もし、御覧《ごろう》じましたら、ただ鼻とこう申せば、お分りになりますでございましょう。」
 判事はちょっと口を挟んで、
「鼻、何鼻の大きい老人、」
「御覧じゃりましたかね。」
「むむ、過日《いつか》来る時奇代な人間が居ると思ったが、それか。」
「それでございますとも。」
「お待ち、ちょうどあすこだ、」と判事は胸を斜めに振返って、欄干《てすり》に肱《ひじ》を懸けると、滝の下道が三ツばかり畝《うね》って葉の蔭に入る一叢《ひとむら》の藪《やぶ》を指《ゆびさ》した。
「あの藪を出て、少し行った路傍《みちばた》の日当《ひあたり》の可《よ》い処に植木屋の木戸とも思うのがある。」
「はい、植吉でございます。」
「そうか、その木戸の前に、どこか四ツ谷辺の縁日へでも持出すと見えて、女郎花《おみなえし》だの、桔梗《ききょう》、竜胆《りんどう》だの、何、大したものはない、ほんの草物ばかり、それはそれは綺麗に咲いたのを積んだまま置いてあった
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