然として火を思った。
 何処《どこ》ともなしに、キリリキリリと、軋《きし》る轅《ながえ》の車の響《ひびき》。
 鞠子《まりこ》は霞む長橋《ながばし》の阿部川の橋の板を、あっちこっち、ちらちらと陽炎《かげろう》が遊んでいる。
 時に蒼空《あおぞら》に富士を見た。
 若き娘に幸《さち》あれと、餅屋の前を通過《とおりす》ぎつつ、
 ――若い衆《しゅ》、綺麗《きれい》な娘さんだね、いい婿《むこ》さんが持たせたいね――
 ――ええ、餅屋の婿さんは知りませんが、向う側のあの長い塀、それ、柳のわきの裏門のありますお邸《やしき》は、……旦那、大財産家《だいざいさんか》でございましてな。つい近い頃、東京から、それはそれは美しい奥さんが見えましたよ――
 何とこうした時は、見ぬ恋にも憧憬《あこが》れよう。
 欲《ほし》いのは――もしか出来たら――偐紫《にせむらさき》の源氏雛《げんじびな》、姿も国貞《くにさだ》の錦絵《にしきえ》ぐらいな、花桐《はなぎり》を第一に、藤《ふじ》の方《かた》、紫、黄昏《たそがれ》、桂木《かつらぎ》、桂木は人も知った朧月夜《おぼろづきよ》の事である。
   照りもせず、くもりも果て
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