春昼後刻
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)間《ま》もなく

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)迷惑|処《どころ》では

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(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って
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       二十四

 この雨は間《ま》もなく霽《は》れて、庭も山も青き天鵞絨《びろうど》に蝶花《ちょうはな》の刺繍《ぬいとり》ある霞《かすみ》を落した。何んの余波《なごり》やら、庵《いおり》にも、座にも、袖《そで》にも、菜種《なたね》の薫《かおり》が染《し》みたのである。
 出家は、さて日《ひ》が出口《でぐち》から、裏山のその蛇《じゃ》の矢倉《やぐら》を案内しよう、と老実《まめ》やかに勧めたけれども、この際、観音《かんおん》の御堂《みどう》の背後《うしろ》へ通り越す心持《こころもち》はしなかったので、挨拶《あいさつ》も後日《ごじつ》を期して、散策子は、やがて庵《いおり》を辞した。
 差当《さしあた》り、出家の物語について、何んの思慮もなく、批評も出来ず、感想も陳《の》べられなかったので、言われた事、話されただけを、不残《のこらず》鵜呑《うの》みにして、天窓《あたま》から詰込《つめこ》んで、胸が膨《ふく》れるまでになったから、独《ひと》り静《しずか》に歩行《ある》きながら、消化《こな》して胃の腑《ふ》に落ちつけようと思ったから。
 対手《あいて》も出家だから仔細《しさい》はあるまい、(さようなら)が些《ち》と唐突《だしぬけ》であったかも知れぬ。
 ところで、石段を背後《うしろ》にして、行手《ゆくて》へ例の二階を置いて、吻《ほっ》と息をすると……、
「転寐《うたたね》に……」
 と先《ま》ず口の裏《うち》でいって見て、小首を傾けた。杖《ステッキ》が邪魔なので腕《かいな》の処《ところ》へ揺《ゆす》り上げて、引包《ひきつつ》んだその袖《そで》ともに腕組をした。菜種の花道《はなみち》、幕の外の引込《ひっこ》みには引立《ひった》たない野郎姿《やろうすがた》。雨上りで照々《てかてか》と日が射すのに、薄く一面にねんばりした足許《あしもと》、辷《すべ》って転ばねば可《よ》い。
「恋しき人を見てしより……夢てふものは、」
 とちょいと顔を上げて見ると、左の崕《がけ》から椎《しい》の樹が横に出ている――遠くから視《なが》めると、これが石段の根を仕切る緑なので、――庵室《あんじつ》はもう右手《めて》の背後《うしろ》になった。
 見たばかりで、すぐにまた、
「夢と言えば、これ、自分も何んだか夢を見ているようだ。やがて目が覚《さ》めて、ああ、転寐《うたたね》だったと思えば夢だが、このまま、覚めなければ夢ではなかろう。何時《いつ》か聞いた事がある、狂人《きちがい》と真人間《まにんげん》は、唯《ただ》時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が荒れるように、誰でもちょいちょいは狂気《きちがい》だけれど、直ぐ、凪《な》ぎになって、のたりのたりかなで済む。もしそれが静まらないと、浮世の波に乗っかってる我々、ふらふらと脳が揺れる、木《き》静まらんと欲すれども風やまずと来た日にゃ、船に酔《え》う、その浮世の波に浮んだ船に酔うのが、たちどころに狂人《きちがい》なんだと。
 危険々々《けんのんけんのん》。
 ト来た日にゃ夢もまた同一《おんなじ》だろう。目が覚めるから、夢だけれど、いつまでも覚めなけりゃ、夢じゃあるまい。
 夢になら恋人に逢えると極《きま》れば、こりゃ一層《いっそ》夢にしてしまって、世間で、誰某《たれそれ》は? と尋ねた時、はい、とか何んとか言って、蝶々《ちょうちょう》二つで、ひらひらなんぞは悟ったものだ。
 庵室《あんじつ》の客人なんざ、今聞いたようだと、夢てふものを頼《たの》み切りにしたのかな。」
 と考えが道草《みちくさ》の蝶に誘《さそ》われて、ふわふわと玉《たま》の緒《お》が菜の花ぞいに伸びた処《ところ》を、風もないのに、颯《さっ》とばかり、横合《よこあい》から雪の腕《かいな》、緋《ひ》の襟《えり》で、つと爪尖《つまさき》を反らして足を踏伸《ふみの》ばした姿が、真黒《まっくろ》な馬に乗って、蒼空《あおぞら》を飜然《ひらり》と飛び、帽子の廂《ひさし》を掠《かす》めるばかり、大波を乗って、一跨《ひとまた》ぎに紅《くれない》の虹を躍《おど》り越えたものがある。
 はたと、これに空想の前途《ゆくて》を遮《さえぎ》られて、驚いて心付《こころづ》くと、赤楝蛇《やまかがし》のあとを過ぎて、機《はた》を織る婦人《おんな》の小家《こいえ》も通り越していたのであった。
 音はと思うに、きりはたり
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