香《こう》の名残《なごり》か、あらず、ともすれば風につれて、随所、紙谷町を渡り来る一種の薬の匂《におい》であつた。
 しかも梅の影がさして、窓がぽつと明《あかる》くなる時、縁《えん》に蚊遣《かやり》の靡《なび》く時、折に触れた今までに、つい其夜《そのよ》の如く香《か》の高かつた事はないのである。
 瓶《びん》か、壺《つぼ》か、其の薬が宛然《さながら》枕許《まくらもと》にでもあるやうなので、余《あまり》の事に再び目をあけると、暗《くらやみ》の中に二枚の障子。件《くだん》の泉水《せんすい》を隔てて寝床の裾《すそ》に立つて居るのが、一間《いっけん》真蒼《まっさお》になつて、桟《さん》も数へらるゝばかり、黒みを帯びた、動かぬ、どんよりした光がさして居た。
 見る/\裡《うち》に、べら/\と紙が剥《は》げ、桟が吹《ふ》ツ消《け》されたやうに、ありのまゝで、障子が失《う》せると、羽目《はめ》の破目《やぶれめ》にまで其の光が染《し》み込んだ、一坪の泉水を後《うしろ》に、立顕《たちあらわ》れた婦人《おんな》の姿。
 解《と》き余る鬢《びん》の堆《うずたか》い中に、端然として真向《まむき》の、瞬《またた
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