、薄《うす》くなつて、ぼんやりして、一體《いつたい》に墨《すみ》のやうになつて、やがて、幻《まぼろし》は手《て》にも留《とま》らず。
 放《はな》して退《すさ》ると、別《べつ》に塀際《へいぎは》に、犇々《ひし/\》と材木《ざいもく》の筋《すぢ》が立《た》つて並《なら》ぶ中《なか》に、朧々《おぼろ/\》とものこそあれ、學士《がくし》は自分《じぶん》の影《かげ》だらうと思《おも》つたが、月《つき》は無《な》し、且《か》つ我《わ》が足《あし》は地《つち》に釘《くぎ》づけになつてるのにも係《かゝは》らず、影法師《かげぼふし》は、薄《うす》くなり、濃《こ》くなり、濃《こ》くなり、薄《うす》くなり、ふら/\動《うご》くから我《われ》にもあらず、
「お柳《りう》、」
 思《おも》はず又《また》、
「お柳《りう》、」
 といつてすた/\と十|間《けん》ばかりあとを追《お》つた。
「待《ま》て。」
 あでやかな顏《かほ》は目前《めさき》に歴々《あり/\》と見《み》えて、ニツと笑《わら》ふ涼《すゞし》い目《め》の、うるんだ露《つゆ》も手《て》に取《と》るばかり、手《て》を取《と》らうする、と何《なん》にもない。掌《たなそこ》に障《さは》つたのは寒《さむ》い旭《あさひ》の光線《くわうせん》で、夜《よ》はほの/″\と明《あ》けたのであつた。
 學士《がくし》は昨夜《さくや》、礫川《こいしかは》なる其《その》邸《やしき》で、確《たしか》に寢床《ねどこ》に入《はひ》つたことを知《し》つて、あとは恰《あたか》も夢《ゆめ》のやう。今《いま》を現《うつゝ》とも覺《おぼ》えず。唯《と》見《み》れば池《いけ》のふちなる濡《ぬ》れ土《つち》を、五六|寸《すん》離《はな》れて立《た》つ霧《きり》の中《なか》に、唱名《しやうみやう》の聲《こゑ》、鈴《りん》の音《おと》、深川木場《ふかがはきば》のお柳《りう》が※[#「姉」の正字、「※[#第3水準1−85−57]」の「木」に代えて「女」、720−15]《あね》の門《かど》に紛《まぎ》れはない。然《しか》も面《おもて》を打《う》つ一脈《いちみやく》の線香《せんかう》の香《にほひ》に、學士《がくし》はハツと我《われ》に返《かへ》つた。何《なに》も彼《か》も忘《わす》れ果《は》てて、狂氣《きやうき》の如《ごと》く、其《その》家《や》を音信《おとづ》れて聞《き》くと、お柳《りう》は丁《ちやう》ど爾時《そのとき》……。あはれ、草木《くさき》も、婦人《をんな》も、靈魂《たましひ》に姿《すがた》があるのか。



底本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店
   1941(昭和16)年3月15日第1刷発行
   1986(昭和61)年12月3日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年11月11日作成
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