な面《おもて》、目《め》の光《ひか》る、口《くち》の尖《とが》つた、手足《てあし》は枯木《かれき》のやうな異人《いじん》であつた。
「お柳《りう》。」と呼《よ》ばうとしたけれども、工學士《こうがくし》は餘《あま》りのことに聲《こゑ》が出《で》なくツて瞳《ひとみ》を据《す》ゑた。
 爾時《そのとき》何事《なにごと》とも知《し》れず仄《ほの》かにあかりがさし、池《いけ》を隔《へだ》てた、堤防《どて》の上《うへ》の、松《まつ》と松《まつ》との間《あひだ》に、すつと立《た》つたのが婦人《をんな》の形《かたち》、ト思《おも》ふと細長《ほそなが》い手《て》を出《だ》し、此方《こなた》の岸《きし》を氣《け》だるげに指招《さしまね》く。
 學士《がくし》が堪《た》まりかねて立《た》たうとする足許《あしもと》に、船《ふね》が横《よこ》ざまに、ひたとついて居《ゐ》た、爪先《つまさき》の乘《の》るほどの處《ところ》にあつたのを、霧《きり》が深《ふか》い所爲《せゐ》で知《し》らなかつたのであらう、單《たゞ》そればかりでない。
 船《ふね》の胴《どう》の室《ま》に嬰兒《あかご》が一人《ひとり》、黄色《きいろ》い裏《うら》をつけた、紅《くれなゐ》の四《よ》ツ身《み》を着《き》たのが辷《すべ》つて、彼《か》の婦人《をんな》の招《まね》くにつれて、船《ふね》ごと引《ひ》きつけらるゝやうに、水《みづ》の上《うへ》をする/\と斜《なゝ》めに行《ゆ》く。
 其《その》道筋《みちすぢ》に、夥《おびたゞ》しく沈《しづ》めたる材木《ざいもく》は、恰《あたか》も手《て》を以《も》て掻《か》き退《の》ける如《ごと》くに、算《さん》を亂《みだ》して颯《さつ》と左右《さいう》に分《わか》れたのである。
 其《それ》が向《むか》う岸《ぎし》へ着《つ》いたと思《おも》ふと、四邊《あたり》また濛々《もう/\》、空《そら》の色《いろ》が少《すこ》し赤味《あかみ》を帶《お》びて、殊《こと》に黒《くろ》ずんだ水面《すゐめん》に、五六|人《にん》の氣勢《けはひ》がする、囁《さゝや》くのが聞《きこ》えた。
「お柳《りう》、」と思《おも》はず抱占《だきし》めた時《とき》は、淺黄《あさぎ》の手絡《てがら》と、雪《ゆき》なす頸《うなじ》が、鮮《あざ》やかに、狹霧《さぎり》の中《なか》に描《ゑが》かれたが、見《み》る/\、色《いろ》があせて、薄《うす》くなつて、ぼんやりして、一體《いつたい》に墨《すみ》のやうになつて、やがて、幻《まぼろし》は手《て》にも留《とま》らず。
 放《はな》して退《すさ》ると、別《べつ》に塀際《へいぎは》に、犇々《ひし/\》と材木《ざいもく》の筋《すぢ》が立《た》つて並《なら》ぶ中《なか》に、朧々《おぼろ/\》とものこそあれ、學士《がくし》は自分《じぶん》の影《かげ》だらうと思《おも》つたが、月《つき》は無《な》し、且《か》つ我《わ》が足《あし》は地《つち》に釘《くぎ》づけになつてるのにも係《かゝは》らず、影法師《かげぼふし》は、薄《うす》くなり、濃《こ》くなり、濃《こ》くなり、薄《うす》くなり、ふら/\動《うご》くから我《われ》にもあらず、
「お柳《りう》、」
 思《おも》はず又《また》、
「お柳《りう》、」
 といつてすた/\と十|間《けん》ばかりあとを追《お》つた。
「待《ま》て。」
 あでやかな顏《かほ》は目前《めさき》に歴々《あり/\》と見《み》えて、ニツと笑《わら》ふ涼《すゞし》い目《め》の、うるんだ露《つゆ》も手《て》に取《と》るばかり、手《て》を取《と》らうする、と何《なん》にもない。掌《たなそこ》に障《さは》つたのは寒《さむ》い旭《あさひ》の光線《くわうせん》で、夜《よ》はほの/″\と明《あ》けたのであつた。
 學士《がくし》は昨夜《さくや》、礫川《こいしかは》なる其《その》邸《やしき》で、確《たしか》に寢床《ねどこ》に入《はひ》つたことを知《し》つて、あとは恰《あたか》も夢《ゆめ》のやう。今《いま》を現《うつゝ》とも覺《おぼ》えず。唯《と》見《み》れば池《いけ》のふちなる濡《ぬ》れ土《つち》を、五六|寸《すん》離《はな》れて立《た》つ霧《きり》の中《なか》に、唱名《しやうみやう》の聲《こゑ》、鈴《りん》の音《おと》、深川木場《ふかがはきば》のお柳《りう》が※[#「姉」の正字、「※[#第3水準1−85−57]」の「木」に代えて「女」、720−15]《あね》の門《かど》に紛《まぎ》れはない。然《しか》も面《おもて》を打《う》つ一脈《いちみやく》の線香《せんかう》の香《にほひ》に、學士《がくし》はハツと我《われ》に返《かへ》つた。何《なに》も彼《か》も忘《わす》れ果《は》てて、狂氣《きやうき》の如《ごと》く、其《その》家《や》を音信《おとづ》れて聞《き》くと、お
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