わ。お庇《かげ》で舌の根が弛《ゆる》んだ。癪《しゃく》だがよ、振放して素飛《すっと》ばいたまでの事だ。な、それが源《もと》で、人間が何をしょうと、かをしょうと、さっぱり俺が知った事ではあるまい。
二の烏 道理かな、説法かな。お釈迦様《しゃかさま》より間違いのない事を云うわ。いや、またお一どのの指環を銜えたのが悪ければ、晴上がった雨も悪し、ほかほかとした陽気も悪し、虹も悪い、と云わねばならぬ。雨や陽気がよくないからとて、どうするものだ。得ての、空の美しい虹の立つ時は、地にも綺麗な花が咲くよ。芍薬《しゃくやく》か、牡丹《ぼたん》か、菊か、猿《えて》が折って蓑《みの》にさす、お花畑のそれでなし不思議な花よ。名も知れぬ花よ。ざっと虹のような花よ。人間の家《や》の中《うち》に、そうした花の咲くのは壁にうどんげの開くとおなじだ。俺たちが見れば、薄暗い人間界に、眩《まぶし》い虹のような、その花のパッと咲いた処は鮮麗《あざやか》だ。な、家を忘れ、身を忘れ、生命《いのち》を忘れて咲く怪しい花ほど、美しい眺望《ながめ》はない。分けて今度の花は、お一どのが蒔《ま》いた紅《あか》い玉から咲いたもの、吉野紙の霞で包んで、露をかためた硝子《ビイドロ》の器《うつわ》の中へ密《そっ》と蔵《しま》ってもおこうものを。人間の黒い手は、これを見るが最後|掴《つか》み散らす。当人は、黄色い手袋、白い腕飾と思うそうだ。お互に見れば真黒《まっくろ》よ。人間が見て、俺たちを黒いと云うと同一《おなじ》かい、別して今来た親仁《おやじ》などは、鉄棒同然、腕に、火の舌を搦《から》めて吹いて、右の不思議な花を微塵《みじん》にしょうと苛《あせ》っておるわ。野暮《やぼ》めがな。はて、見ていれば綺麗なものを、仇花《あだばな》なりとも美しく咲かしておけば可《い》い事よ。
三の烏 なぞとな、お二《ふた》めが、体《てい》の可《い》い事を吐《ぬか》す癖に、朝烏の、朝桜、朝露の、朝風で、朝飯を急ぐ和郎《わろ》だ。何だ、仇花なりとも、美しく咲かしておけば可い事だ。からからからと笑わせるな。お互にここに何している。その虹の散るのを待って、やがて食おう、突こう、嘗《な》みょう、しゃぶろうと、毎夜、毎夜、この間、……咽喉《のど》、嘴《くちばし》を、カチカチと噛鳴《かみな》らいておるのでないかい。
二の烏 さればこそ待っている。桜の枝を踏めばといって、虫の数ほど花片《はなびら》も露もこぼさぬ俺たちだ。このたびの不思議なその大輪の虹の台《うてな》、紅玉の蕊《しべ》に咲いた花にも、俺たちが、何と、手を着けるか。雛芥子《ひなげし》が散って実になるまで、風が誘うを視《なが》めているのだ。色には、恋には、情《なさけ》には、その咲く花の二人を除《の》けて、他の人間はたいがい風だ。中にも、ぬしというものはな、主人《あるじ》というものはな、淵《ふち》に棲《す》むぬし、峰にすむ主人《あるじ》と同じで、これが暴風雨《あらし》よ、旋風《つむじかぜ》だ。一溜《ひとたま》りもなく吹散らす。ああ、無慙《むざん》な。
一の烏 と云ふ嘴《くちばし》を、こつこつ鳴らいて、内々その吹き散るのを待つのは誰だ。
二の烏 ははははは、俺達だ、ははははは。まず口だけは体《てい》の可《い》い事を言うて、その実はお互に餌食《えじき》を待つのだ。また、この花は、紅玉の蕊《しべ》から虹に咲いたものだが、散る時は、肉になり、血になり、五色《ごしき》の腸《はらわた》となる。やがて見ろ、脂の乗った鮟鱇《あんこう》のひも、という珍味を、つるりだ。
三の烏 いつの事だ、ああ、聞いただけでも堪《たま》らぬわ。(ばたばたと羽を煽《あお》つ。)
二の烏 急ぐな、どっち道俺たちのものだ。餌食がその柔かな白々とした手足を解いて、木の根の塗膳《ぬりぜん》、錦手《にしきで》の木《こ》の葉の小皿盛となるまでは、精々、咲いた花の首尾を守護して、夢中に躍跳ねるまで、楽《たのし》ませておかねばならん。網で捕《と》ったと、釣ったとでは、鯛《たい》の味が違うと言わぬか。あれ等を苦《くるし》ませてはならぬ、悲《かなし》ませてはならぬ、海の水を酒にして泳がせろ。
一の烏 むむ、そこで、椅子《いす》やら、卓子《テェブル》やら、天幕《テント》の上げさげまで手伝うかい。
三の烏 あれほどのものを、(天幕を指す)持運びから、始末まで、俺たちが、この黒い翼で人間の目から蔽《おお》うて手伝うとは悟り得ず、薄《すすき》の中に隠したつもりの、彼奴等《あいつら》の甘さが堪《たま》らん。が、俺たちの為《な》す処は、退いて見ると、如法《にょほう》これ下女下男の所為《しょい》だ。天《あめ》が下に何と烏ともあろうものが、大分権式を落すわけだな。
二の烏 獅子《しし》、虎《とら》、豹《ひょう》、地を走る獣。空を飛ぶ仲間では、
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