めいど》の旅のごときものじゃ。昔から、事が、こういう事が起って、それが破滅に近づく時は、誰もするわ。平凡な手段じゃ。通例過ぎる遣方《やりかた》じゃが、せんという事には行《ゆ》かなかった。今云うた冥土の旅を、可厭《いや》じゃと思うても、誰もしないわけには行《ゆ》かぬようなものじゃ。また、汝等《きさまら》とても、こういう事件の最後の際には、その家の主人か、良人《おっと》か、可《え》えか、俺がじゃ、ある手段として旅行するに極《きま》っとる事を知っておる。汝《きさま》は知らいでも、怜悧《りこう》なあれは知っておる。汝とても、少しは分っておろう。分っていて、その主人が旅行という隙間《すきま》を狙う。わざと安心して大胆な不埒《ふらち》を働く。うむ、耳を蔽《おお》うて鐸《すず》を盗むというのじゃ。いずれ音の立ち、声の響くのは覚悟じゃろう。何もかも隠さずに言ってしまえ。いつの事か。一体、いつ頃の事か。これ。
侍女 いつ頃とおっしゃって、あの、影法師の事でございましょうか。それは唯今《ただいま》……
紳士 黙れ。影法師か何か知らんが、汝等《きさまら》三人の黒い心が、形にあらわれて、俺の邸の内外を横行しはじめた時だ。
侍女 御免遊ばして、御前様、私《わたくし》は何にも存じません。
紳士 用意は出来とる。女郎《めろう》、俺の衣兜《かくし》には短銃《ピストル》があるぞ。
侍女 ええ。
紳士 さあ、言え。
侍女 御前様、お許し下さいまし。春の、暮方《くれがた》の事でございます。美しい虹《にじ》が立ちまして、盛りの藤の花と、つつじと一所に、お庭の池に影の映りましたのが、薄紫の頭《かしら》で、胸に炎の搦《から》みました、真紅《しんく》なつつじの羽の交《まじ》った、その虹の尾を曳《ひ》きました大きな鳥が、お二階を覗《のぞ》いておりますように見えたのでございます。その日は、御前様のお留守、奥様が欄干越に、その景色をお視《なが》めなさいまして、――ああ、綺麗な、この白い雲と、蒼空《あおぞら》の中に漲《みなぎ》った大鳥を御覧――お傍《そば》に居《お》りました私《わたくし》にそうおっしゃいまして――この鳥は、頭《かしら》は私の簪《かんざし》に、尾を私の帯になるために来たんだよ。角の九つある、竜が、頭《かしら》を兜《かぶと》に、尾を草摺《くさずり》に敷いて、敵に向う大将軍を飾ったように。……けれども、虹には目がないから、私の姿が見つからないので、頭《かしら》を水に浸して、うなだれ悄《しお》れている。どれ、目を遣《や》ろう――と仰有《おっしゃ》いますと、右の中指に嵌《は》めておいで遊ばした、指環《ゆびわ》の紅《あか》い玉でございます。開いては虹に見えぬし、伏せては奥様の目に見えません。ですから、その指環をお抜きなさいまして。
紳士 うむ、指環を抜いてだな。うむ、指環を抜いて。
侍女 そして、雪のようなお手の指を環《わ》に遊ばして、高い処で、青葉の上で、虹の膚《はだ》へ嵌めるようになさいますと、その指に空の色が透通りまして、紅い玉は、颯《さっ》と夕日に映って、まったく虹の瞳になって、そして晃々《きらきら》と輝きました。その時でございます。お庭も池も、真暗《まっくら》になったと思います。虹も消えました。黒いものが、ばっと来て、目潰《めつぶ》しを打ちますように、翼を拡げたと思いますと、その指環を、奥様の手から攫《さら》いまして、烏が飛びましたのでございます。露に光る木《こ》の実だ、と紅い玉を、間違えたのでございましょう。築山の松の梢《こずえ》を飛びまして、遠くも参りませんで、塀の上に、この、野の末の処へ入ります。真赤《まっか》な、まん円《まる》な、大きな太陽様《おひさま》の前に黒く留まったのが見えたのでございます。私は跣足《はだし》で庭へ駈下《かけお》りました。駈けつけて声を出しますと、烏はそのまま塀の外へまた飛びましたのでございます。ちょうどそこが、裏木戸の処でございます。あの木戸は、私が御奉公申しましてから、五年と申しますもの、お開け遊ばした事といっては一度もなかったのでございます。
紳士 うむ、あれは開けるべき木戸ではないのじゃ。俺が覚えてからも、止《や》むを得ん凶事で二度だけは開けんければならんじゃった。が、それとても凶事を追出いたばかりじゃ。外から入って来た不祥《ふしょう》はなかった。――それがその時、汝《きさま》の手で開いたのか。
侍女 ええ、錠《じょう》の鍵《かぎ》は、がっちりささっておりましたけれど、赤錆《あかさび》に錆切りまして、圧《お》しますと開きました。くされて落ちたのでございます。塀の外に、散歩らしいのが一人立っていたのでございます。その男が、烏の嘴《くちばし》から落しました奥様のその指環を、掌《てのひら》に載せまして、凝《じっ》と見ていましたのでござ
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング