印が着いたぞ。」
「え!」と吃驚《びっくり》して慌てて見ると、上衣《うわぎ》の裾に白墨で丸いもの。
「どうじゃ。」
「失敬な、」とばかり苦い顔をして、また手巾《ハンケチ》を引出した。島野はそそくさと払い落して、
「止したまえ。」
「ははは、構わん、遣れ。あの花売は未曾有《みぞう》の尤物《ゆうぶつ》じゃ、また貴様が不可《いけ》なければ私《わし》が占めよう。」
「大分、御意見とは違いますように存じますが。」
「英雄色を好むさ。」と傲然《ごうぜん》として言った。二人が気の合うのはすなわちここで、藁草履と猟犬と用いる手段は異なるけれども、その目的は等《ひとし》いのである。
 島野は気遣わしそうに見えて、
「まさか、君、花売が処へは、用いまいね、何を、その白墨を。」
「可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那奴《あいつ》また白墨|一抹《いちまつ》に価するんじゃから。」

       十六

「貴方《あなた》御存じでございますか。」
「ああ、今のその話の花か。知ってはいない、見たことはないけれどもあるそうだ。いや、有るに違いはないんだよ。」
 萱《かや》の軒端《のきば》に鳥の声、という侘《わび》しいのであるが、お雪が、朝、晩、花売に市へ行く、出際と、帰ってからと、二度ずつ襷懸《たすきが》けで拭込《ふきこ》むので、朽目《くちめ》に埃《ほこり》も溜《たま》らず、冷々《ひやひや》と濡色を見せて涼しげな縁に端居《はしい》して、柱に背《せな》を持たしたのは若山|拓《ひらく》、煩《わずらい》のある双の目を塞《ふさ》いだまま。
 生《うまれ》は東京で、氏素性は明かでない。父も母も誰も知らず、諸国漫遊の途次、一昨年の秋、この富山に来て、旅籠町の青柳《あおやぎ》という旅店に一泊した。その夜《よ》賊のためにのこらず金子《きんす》を奪われて、明《あく》る日の宿料もない始末。七日十日|逗留《とうりゅう》して故郷へ手紙を出した処で、仔細《しさい》あって送金の見込はないので、進退|谷《きわ》まったのを、宜《よろ》しゅうがすというような気前の好《い》い商人《あきんど》はここにはない。ただし地方裁判所の検事に朝野なにがしというのが、その為人《ひととなり》に見る所があって、世話をして、足を留《とど》めさせたということを、かつて教《おしえ》を受けた学生は皆知っている。若山は、昔なら浪人の手習師匠、由緒
前へ 次へ
全100ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング