を、傾けて仰いで見た。
「いえ、何、擦剥《すりむき》もしないようだ。」と力なく手を垂れて、膝の辺りを静《しずか》に払《はた》く。
「まあ、砂がついて、あれ、こんなに、」と可怨《うらめ》しそうに、袖についた埃《ほこり》を払おうとしたが、ふと気を着けると、袂《たもと》は冷々《ひやひや》と湿りを持って、塗《まみ》れた砂も落尽くさず、またその漆黒な髪もしっとりと濡れている。男の眉は自《おのず》から顰《ひそ》んで、紅絹《もみ》の切《きれ》で、赤々と押えた目の縁《ふち》も潤んだ様子。娘は袂に縋《すが》ったまま、荷を結えた縄の端を、思わず落そうとしてしっかり取った。
「今帰るのかい。」
「は……い。」
「暑いのに随分だな。」
 思入って労《ねぎら》う言葉。お雪は身に染み、胸に応《こた》えて、
「あなた。」
「ああ、」
「お医者様は、」
 問われて目を圧《おさ》えた手が微《かすか》に震え、
「悪い方じゃあないッていうが、どうも捗々《はかばか》しくは行《ゆ》かぬそうだ。なりたけまあ大事にして、ものを見ないようにする方が可《い》いっていうもんだから、ここはちょうど人通の少い処、密《そっ》と目を塞《ふさ》いで探って来たので、ついとんだ羂《わな》に蹈込《ふみこ》んださ、意気地《いくじ》はないな、忌々《いまいま》しい。」
 とさりげなく打頬笑《うちほほえ》む。これに心を安んじたか、お雪もやや色を直して、
「どうぞまあ、お医者様を内へお呼び申すことにして、あなたはお寝《よ》って、何にもしないでいらっしゃるようにしたいものでございますね。」
「それは何、懇意な男だから、先方《さき》でもそう言ってくれるけれども、上手なだけ流行るので隙《ひま》といっちゃあない様子、それも気の毒じゃあるし、何、寝ているほどの事もないんだよ。」
「でも、随分お悪いようですよ。そしてあの、お帰途《かえり》に湯にでもお入りなすったの。」
 考えて、
「え、なぜね。」
「お頭《つむり》が濡れておりますもの。」
「む、何ね、そうか、濡れてるか、そうだろう[#「そうだろう」は底本では「そうだらう」]。医者が冷《ひや》してくれたから。」と、詰《なじ》られて言開《いいひらき》をする者のような弱い調子で、努めて平気を装って言った。
「冷しますと、お薬になるんですか。」と袂を持つ手に力が入ると、男は心着いて探ってみたが、苦笑して
「おお
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