ないから、小腰を屈《かが》めて、
「お嬢様、例《いつぞ》の花売の娘が参っております。若様、もうお忘れ遊ばしたでしょう、冷水《おひや》は毒でございますよ。」
七
場末ではあるけれども、富山で賑《にぎや》かなのは総曲輪《そうがわ》という、大手先。城の外壕《そとぼり》が残った水溜《みずたまり》があって、片側町に小商賈《こあきゅうど》が軒を並べ、壕に沿っては昼夜交代に露店《ほしみせ》を出す。観世物《みせもの》小屋が、氷店《こおりみせ》に交《まじ》っていて、町外《まちはずれ》には芝居もある。
ここに中空を凌《しの》いで榎《えのき》が一本、梢《こずえ》にははや三日月が白く斜《ななめ》に懸《かか》った。蝙蝠《こうもり》が黒く、見えては隠れる横町、総曲輪から裏の旅籠町《はたごまち》という大通《おおどおり》に通ずる小路を、ひとしきり急足《いそぎあし》の往来《ゆきき》があった後へ、もの淋《さみ》しそうな姿で歩行《ある》いて来たのは、大人しやかな学生風の、年配二十五六の男である。
久留米の蚊飛白《かがすり》に兵児帯《へこおび》して、少し皺《しわ》になった紬《つむぎ》の黒の紋着《もんつき》を着て、紺足袋を穿《は》いた、鉄色の目立たぬ胸紐《むなひも》を律義に結んで、懐中物を入れているが、夕涼《ゆうすずみ》から出懸けたのであろう、帽は被《かぶ》らず、髪の短かいのが漆《うるし》のようで、色の美しく白い、細面の、背のすらりとしたのが、片手に帯を挟んで、俯向《うつむ》いた、紅絹《もみ》の切《きれ》で目を軽く押えながら、物思いをする風で、何か足許《あしもと》も覚束《おぼつか》ないよう。
静かに歩を移して、もう少しで通《とおり》へ出ようとする、二|間《けん》幅の町の両側で、思いも懸けず、喚《わッ》! といって、動揺《どよ》めいた、四五人の小児《こども》が鯨波《とき》を揚げる。途端に足を取られた男は、横様にはたと地《つち》の上。
「あれ、」という声、旅籠町の角から、白い脚絆《きゃはん》、素足に草鞋穿《わらじばき》の裾《すそ》を端折《はしょ》った、中形の浴衣に繻子《しゅす》の帯の幅狭《はばぜま》なのを、引懸《ひっか》けに結んで、結んだ上へ、桃色の帯揚《おびあげ》をして、胸高に乳の下へしっかと〆《し》めた、これへ女扇をぐいと差して、膝の下の隠れるばかり、甲斐々々しく、水色|唐縮緬《と
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