あるのでございます。」
「熱はお前さんを見て帰ったって同一《おんなじ》だ、何暗いたッて日中《ひなか》よ、構やしない。きっとそこらにうろついているに違いない、ちょっと僕は。おい、姉さん帰りに寄ろう。」
「お気をお着け遊ばしていらっしゃいましよ。」
島野は多磨太が先《さきん》じたりと聞くより、胸の内安からず、あたふた床几《しょうぎ》を離れて立ったが、いざとなると、さて容易な処ではない。ほぼ一町もあるという、森の彼方《かなた》にどうどうと響く滝の音は、大河を倒《さかしま》に懸けたように聞えて、その毛穴はここに居る身にもぞッと立った。島野は逡巡して立っている。
折から堤防伝《つつみづた》いに蹄《ひづめ》の音、一人|砂烟《すなけぶり》を立てて、斜《ななめ》に小さく、空《くう》を駆けるかと見る見る近づき、懸茶屋《かけぢゃや》の彼方から歩を緩《ゆる》めて、悠然と打って来た。茶屋の際の葉柳の下枝《しずえ》を潜《くぐ》って、ぬっくりと黒く顕《あら》われたのは、鬣《たてがみ》から尾に至るまで六尺、長《たけ》の高きこと三尺、全身墨のごとくにして夜眼《やがん》一点の白《はく》あり、名を夕立といって知事の君が秘蔵の愛馬。島野は一目見て驚いて呆れた。しっくりと西洋|鞍《ぐら》置いたるに胸を張って跨《またが》ったのは、美髯《びぜん》広額の君ではなく、一個白面の美少年。頭髪柔かにやや乱れた額少しく汗ばんで、玉洗えるがごとき頬のあたりを、さらさらと払った葉柳の枝を、一掴み馬上に掻遣《かいや》り、片手に手綱を控えながら、一蹄《いってい》三歩、懸茶屋の前に来ると、件《くだん》の異彩ある目に逸疾《いちはや》く島野を見着けた。
「島野、」と呼懸けざま、飜然《ひらり》と下立《おりた》ったのは滝太郎である。
常にジャムを領するをもって、自家の光彩を発揮する紳士は、この名馬夕立に対して恐入らざるを得ないので、
「おや、千破矢様、どうして貴方、」と渋面を造って頭《かしら》を下げる。その時、駿足《しゅんそく》に流汗を被りながら、呼吸はあえて荒からぬ夕立の鼻面を取って、滝太郎は、自分も掌《てのひら》で額の髪を上げた。
「おい、姉や。」
「はい、」
「水を一杯、冷《つめた》いのを大急《おおいそぎ》だ。島野、可い処でお前《めえ》に逢ったい。おいら、お前ン処《とこ》の義作の来るまで、あすこの柳にでも繋《つな》いでおこう
前へ
次へ
全100ページ中70ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング