う方の床几《しょうぎ》に、腰を懸けたのは島野紳士、ここに名物の吹上の水に対し、上衣《コオト》を取って涼を納《い》れながら、硝子盃《コップ》を手にして、
「ああ、涼しいが風が止《や》んだ、何だか曇って来たじゃあないか、雨はどうだろうな。」
客の人柄を見て招《まねき》の女、お倉という丸ぽちゃが、片襷《かただすき》で塗盆を手にして出ている。
「はい、大抵持ちましょうと存じます。それとも急にこうやって雲が出て参りましたから、ふとすると石滝でお荒れ遊ばすかも分りません。」
「何だね、石滝でお荒れというのは。」
「それはあの、少しでも滝から先へ足踏をする者がございますと、暴風雨《あらし》になるッて、昔から申しますのでございますが。」
島野は硝子盃を下に置いた。
「うむ、そして誰か入ったものがあるのかね。」
「今朝ほど、背負上《しょいあげ》を高くいたして、草鞋《わらじ》を穿《は》きましてね、花籃《はなかご》を担ぎました、容子《ようす》の佳《い》い、美しい姉さんが、あの小さなお扇子を手に持って、」と言懸《いいかか》ると、何と心得たものか、紳士は衣袋《かくし》の間から一本|平骨《ひらぼね》の扇子を抜出して、胸の辺りを、さやさや。
「はあ、それが入ったのか。」
「さようでございます。その姉さんは貴方《あなた》、こないだから、昼間参りましたり、晩方来ましたりいたしましては、この辺を胡乱々々《うろうろ》して、行ったり来たりしていたのでございますがね。今日は七日目でございます。まさかそんなことはと存じておりますと、今朝ほどここの前を通りましてね、滝の方へ行ったきり帰りません、きっと入りましたのでございましょう。」
「何かね、全くそんな不思議な処かね。」
「貴方、お疑り遊ばすと暴風雨《あらし》になりますよ。」といって、塗盆を片頬《かたほ》にあてて吻々《ほほ》と笑った、聞えた愛嬌者《あいきょうもの》である。島野は顔の皮を弛《ゆる》めて、眉をびりびり、目を細うしたのは謂《い》うまでもない。
「それは可《い》いが姉さん、心太《ところてん》を一ツ出しておくれな。」
「はい、はい。」
「待ちたまえ、いや、それともまた降られない内に帰るとするかね。」
「どういたしまして、降りませんでも、貴方|川留《かわどめ》でございますよ。」
方二坪ばかり杉葉の暗い中にむくむくと湧上《わきあが》る、清水に浸したのを
前へ
次へ
全100ページ中68ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング