》た一枚が、雑とあの当時の二百枚だってね、大事のものです。貴下《あなた》にも大事のもので、またこっちも大事のものでさ。価《ね》は惜《おし》まぬ、ね、価《ね》は惜まぬから手放さないか、と何度《なんたび》も言われますがね、売るものですか。そりゃ売らない。憚《はばか》りながら平吉売らないね。預りものだ、手放して可《い》いものですかい。
けれども、おいそれとは今言ったような工合ですから、いずれ、その何んでさ。ま、ま、めし飲《あが》れ、熱い処《ところ》を。ね、御緩《ごゆっく》り。さあ、これえ、お焼物《やきもの》がない。ええ、間抜けな、ぬたばかり。これえ、御酒《ごしゅ》に尾頭《おかしら》は附物《つきもの》だわ。ぬたばかり、いやぬたぬたとぬたった婦《おんな》だ。へへへへへ、鰯《いわし》を焼きな、気は心よ、な、鰯をよ。」
と何か言いたそうに、膝で、もじもじして、平吉の額《ひたい》をぬすみ見る女房の様《さま》は、湯船《ゆぶね》へ横飛びにざぶんと入る、あの見世物の婦《おんな》らしい。これも平吉に買われたために、姿まで変ったのであろう。
坐り直って、
「あなたえ。」
と怨《うら》めしそうな、情《なさけ》ない顔をする。
ぎょろりと目を剥《む》き、険《けん》な面《つら》で、
「これえ。」と言った。
が、鰯《いわし》の催促をしたようで。
「今、焼いとるんや。」
と隣室《となり》の茶の室《ま》で、女房の、その、上の姉が皺《しな》びた声。
「なんまいだ。」
と婆《ばば》が唱《とな》える。……これが――「姫松殿《ひめまつどの》がえ。」と耳を貫く。……称名《しょうみょう》の中から、じりじりと脂肪《あぶら》の煮える響《ひびき》がして、腥《なまぐさ》いのが、むらむらと来た。
この臭気《しゅうき》が、偶《ふ》と、あの黒表紙に肖然《そっくり》だと思った。
とそれならぬ、姉様《あねさん》が、山賊の手に松葉燻《まつばいぶ》しの、乱るる、揺《ゆら》めく、黒髪《くろかみ》までが目前《めさき》にちらつく。
織次は激《はげし》くいった。
「平吉、金子《かね》でつく話はつけよう。鰯《いわし》は待て。」
底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
1999(平成11)年3月15日第19刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十二卷」岩波書店
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