だんまり》。
 ちょっと取着端《とりつきは》がないから、
「だって、欲《ほし》いんだもの。」と言い棄てに、ちょこちょこと板の間《ま》を伝って、だだッ広い、寒い台所へ行《ゆ》く、と向うの隅《すみ》に、霜《しも》が見える……祖母《おばあ》さんが頭巾《ずきん》もなしの真白な小さなおばこで、皿小鉢を、がちがちと冷《つめた》い音で洗ってござる。
「買っとくれよ、よう。」
 と聞分《ききわ》けもなく織次がその袂《たもと》にぶら下った。流《ながし》は高い。走りもとの破れた芥箱《ごみばこ》の上下《うえした》を、ちょろちょろと鼠が走って、豆洋燈《まめランプ》が蜘蛛《くも》の巣の中に茫《ぼう》とある……
「よう、買っとくれよ、お弁当は梅干《うめぼし》で可《い》いからさ。」
 祖母《としより》は、顔を見て、しばらく黙って、
「おお、どうにかして進ぜよう。」
 と洗いさした茶碗をそのまま、前垂《まえだれ》で手を拭《ふ》き拭き、氷のような板の間を、店の畳へ引返《ひきかえ》して、火鉢の前へ、力なげに膝をついて、背後《うしろ》向きに、まだ俯向《うつむ》いたなりの親父を見向いて、
「の、そうさっしゃいよ。」
「なるほど。」
「他の事ではない、あの子も喜ぼう。」
「それでは、母親《おっかさん》、御苦労でございます。」
「何んの、お前。」
 と納戸《なんど》へ入って、戸棚から持出した風呂敷包《ふろしきづつみ》が、その錦絵《にしきえ》で、国貞《くにさだ》の画が二百余枚、虫干《むしぼし》の時、雛祭《ひなまつり》、秋の長夜《ながよ》のおりおりごとに、馴染《なじみ》の姉様《あねさま》三千で、下谷《したや》の伊達者《だてしゃ》、深川《ふかがわ》の婀娜者《あだもの》が沢山《たんと》いる。
 祖母《おばあ》さんは下に置いて、
「一度見さっしゃるか。」と親父に言った。
「いや、見ますまい。」
 と顔を背向《そむ》ける。
 祖母《としより》は解《ほど》き掛《か》けた結目《むすびめ》を、そのまま結《ゆわ》えて、ちょいと襟《えり》を引合わせた。細い半襟《はんえり》の半纏《はんてん》の袖《そで》の下に抱《かか》えて、店のはずれを板の間から、土間へ下りようとして、暗い処《ところ》で、
「可哀《かわい》やの、姉様《あねさま》たち。私《わし》が許《もと》を離れてもの、蜘蛛男《くもおとこ》に買われさっしゃるな、二股坂《ふたまたざか》
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