茶の間を抜ける時、襖《ふすま》二|間《けん》の上を渡って、二階の階子段《はしごだん》が緩《ゆる》く架《かか》る、拭込《ふきこ》んだ大戸棚《おおとだな》の前で、入《いれ》ちがいになって、女房は店の方へ、ばたばたと後退《あとずさ》りに退《すさ》った。
その茶の室《ま》の長火鉢を挟《はさ》んで、差《さし》むかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火鉢の向うに踞《つくば》って、その法然天窓《ほうねんあたま》が、火の気の少い灰の上に冷たそうで、鉄瓶《てつびん》より低い処《ところ》にしなびたのは、もう七十の上《うえ》になろう。この女房の母親《おふくろ》で、年紀《とし》の相違が五十の上《うえ》、余り間があり過ぎるようだけれども、これは女房が大勢の娘の中に一番|末子《すえっこ》である所為《せい》で、それ、黒のけんちゅうの羽織《はおり》を着て、小さな髷《まげ》に鼈甲《べっこう》の耳こじりをちょこんと極《き》めて、手首に輪数珠《わじゅず》を掛けた五十格好の婆《ばばあ》が背後向《うしろむき》に坐ったのが、その総領《そうりょう》の娘である。
不沙汰《ぶさた》見舞に来ていたろう。この婆《ばばあ》は、よそへ嫁附《かたづ》いて今は産んだ忰《せがれ》にかかっているはず。忰というのも、煙管《きせる》、簪《かんざし》、同じ事を業《ぎょう》とする。
が、この婆娘《ばばあむすめ》は虫が好かぬ。何為《なぜ》か、その上、幼い記憶に怨恨《うらみ》があるような心持《こころもち》が、一目見ると直ぐにむらむらと起ったから――この時黄色い、でっぷりした眉《まゆ》のない顔を上げて、じろりと額《ひたい》で見上げたのを、織次は屹《きっ》と唯一目《ただひとめ》。で、知らぬ顔して奥へ通った。
「南無阿弥陀仏《なあまいだぶ》。」
と折から唸《うな》るように老人《としより》が唱《とな》えると、婆娘《ばばあむすめ》は押冠《おっかぶ》せて、
「南無阿弥陀仏《なあまいだんぶ》。」と生若《なまわか》い声を出す。
「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りも遣《や》らず、中腰でそわそわ。
「お忙しいかね。」と織次は構わず、更紗《さらさ》の座蒲団を引寄せた。
「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、つい暇《ひま》でもございまするしね、怠《なま》け仕事に板前《いたまえ》で庖丁《ほうちょう》の腕前を見せていた所で
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