先へ立った婦人《おんな》の姿が目さきを放れたから、松の幹《みき》に掴《つか》まって覗《のぞ》くと、つい下に居た。
 仰向《あおむ》いて、
(急に低くなりますから気をつけて。こりゃ貴僧《あなた》には足駄《あしだ》では無理でございましたかしら、宜《よろ》しくば草履《ぞうり》とお取交《とりか》え申しましょう。)
 立後《たちおく》れたのを歩行悩《あるきなや》んだと察した様子、何がさて転げ落ちても早く行って蛭《ひる》の垢《あか》を落したさ。
(何、いけませんければ跣足《はだし》になります分のこと、どうぞお構いなく、嬢様にご心配をかけては済みません。)
(あれ、嬢様ですって、)とやや調子を高めて、艶麗《あでやか》に笑った。
(はい、ただいまあの爺様《じいさん》が、さよう申しましたように存じますが、夫人《おくさま》でございますか。)
(何にしても貴僧《あなた》には叔母《おば》さんくらいな年紀《とし》ですよ。まあ、お早くいらっしゃい、草履もようござんすけれど、刺《とげ》がささりますといけません、それにじくじく湿《ぬ》れていてお気味が悪うございましょうから。)と向う向《むき》でいいながら衣服《きもの》の片褄《かたつま》をぐいとあげた。真白なのが暗《やみ》まぎれ、歩行《ある》くと霜《しも》が消えて行くような。
 ずんずんずんずんと道を下りる、傍《かたわ》らの叢《くさむら》から、のさのさと出たのは蟇《ひき》で。
(あれ、気味が悪いよ。)というと婦人《おんな》は背後《うしろ》へ高々と踵《かかと》を上げて向うへ飛んだ。
(お客様がいらっしゃるではないかね、人の足になんか搦《から》まって、贅沢《ぜいたく》じゃあないか、お前達は虫を吸っていればたくさんだよ。
 貴僧《あなた》ずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。こう云う処ですからあんなものまで人|懐《なつか》しゅうございます、厭《いや》じゃないかね、お前達と友達をみたようで愧《はずか》しい、あれいけませんよ。)
 蟇はのさのさとまた草を分けて入った、婦人《おんな》はむこうへずいと。
(さあこの上へ乗るんです、土が柔かで壊《く》えますから地面は歩行《ある》かれません。)
 いかにも大木の僵《たお》れたのが草がくれにその幹をあらわしている、乗ると足駄穿《あしだばき》で差支《さしつか》えがない、丸木だけれどもおそろしく太いので、もっともこれを渡り果てるとたちまち流《ながれ》の音が耳に激《げき》した、それまでにはよほどの間《あいだ》。
 仰いで見ると松の樹《き》はもう影も見えない、十三夜の月はずっと低うなったが、今下りた山の頂《いただき》に半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知られぬ。
(貴僧《あなた》、こちらへ。)
 といった婦人《おんな》はもう一息、目の下に立って待っていた。
 そこは早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかってここによどみを作っている、川幅は一|間《けん》ばかり、水に臨《のぞ》めば音はさまでにもないが、美しさは玉を解いて流したよう、かえって遠くの方で凄《すさま》じく岩に砕《くだ》ける響《ひびき》がする。
 向う岸はまた一座の山の裾《すそ》で、頂の方は真暗《まっくら》だが、山の端《は》からその山腹を射る月の光に照し出された辺《あたり》からは大石小石、栄螺《さざえ》のようなの、六尺角に切出したの、剣《つるぎ》のようなのやら、鞠《まり》の形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きく水に※[#「くさかんむり」に「酉へん」+「隹」、その下に点4個 133−2]《ひた》ったのはただ小山のよう。」

     十四

「(いい塩梅《あんばい》に今日は水がふえておりますから、中へ入りませんでもこの上でようございます。)と甲を浸《ひた》して爪先《つまさき》を屈《かが》めながら、雪のような素足で石の盤《ばん》の上に立っていた。
 自分達が立った側《かわ》は、かえってこっちの山の裾が水に迫って、ちょうど切穴の形になって、そこへこの石を嵌《は》めたような誂《あつらえ》。川上も下流も見えぬが、向うのあの岩山、九十九折《つづらおり》のような形、流は五尺、三尺、一間ばかりずつ上流の方がだんだん遠く、飛々《とびとび》に岩をかがったように隠見《いんけん》して、いずれも月光を浴びた、銀の鎧《よろい》の姿、目《ま》のあたり近いのはゆるぎ糸を捌《さば》くがごとく真白に翻《ひるがえ》って。
(結構な流れでございますな。)
(はい、この水は源が滝《たき》でございます、この山を旅するお方は皆《み》な大風のような音をどこかで聞きます。貴僧《あなた》はこちらへいらっしゃる道でお心着きはなさいませんかい。)
 さればこそ山蛭《やまびる》の大藪《おおやぶ》へ入ろうという少し前からその音を。
(あれは
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