が、一人女《ひとりむすめ》の評判なのがなくなってからは看板を外《はず》した、けれども昔《むかし》から懇意《こんい》な者は断らず泊めて、老人《としより》夫婦が内端《うちわ》に世話をしてくれる、宜《よろ》しくばそれへ、その代《かわり》といいかけて、折を下に置いて、
(ご馳走《ちそう》は人参と干瓢ばかりじゃ。)
とからからと笑った、慎《つつし》み深そうな打見《うちみ》よりは気の軽い。
二
岐阜《ぎふ》ではまだ蒼空《あおぞら》が見えたけれども、後は名にし負う北国空、米原《まいばら》、長浜《ながはま》は薄曇《うすぐもり》、幽《かすか》に日が射《さ》して、寒さが身に染みると思ったが、柳《やな》ヶ瀬《せ》では雨、汽車の窓が暗くなるに従うて、白いものがちらちら交《まじ》って来た。
(雪ですよ。)
(さようじゃな。)といったばかりで別に気に留めず、仰《あお》いで空を見ようともしない、この時に限らず、賤《しず》ヶ岳《たけ》が、といって、古戦場を指した時も、琵琶湖《びわこ》の風景を語った時も、旅僧はただ頷いたばかりである。
敦賀で悚毛《おぞけ》の立つほど煩《わずら》わしいのは宿引《やどひき》の悪弊《あくへい》で、その日も期したるごとく、汽車を下《おり》ると停車場《ステイション》の出口から町端《まちはな》へかけて招きの提灯《ちょうちん》、印傘《しるしがさ》の堤《つつみ》を築き、潜抜《くぐりぬ》ける隙《すき》もあらなく旅人を取囲んで、手《て》ン手《で》に喧《かまびす》しく己《おの》が家号《やごう》を呼立《よびた》てる、中にも烈《はげ》しいのは、素早《すばや》く手荷物を引手繰《ひったく》って、へい難有《ありがと》う様《さま》で、を喰《くら》わす、頭痛持は血が上るほど耐《こら》え切れないのが、例の下を向いて悠々《ゆうゆう》と小取廻《ことりまわ》しに通抜《とおりぬ》ける旅僧は、誰《たれ》も袖を曳《ひ》かなかったから、幸いその後に跟《つ》いて町へ入って、ほっという息を吐《つ》いた。
雪は小止《おやみ》なく、今は雨も交らず乾いた軽いのがさらさらと面《おもて》を打ち、宵《よい》ながら門《かど》を鎖《とざ》した敦賀の通《とおり》はひっそりして一条二条|縦横《たてよこ》に、辻《つじ》の角は広々と、白く積った中を、道の程《ほど》八町ばかりで、とある軒下《のきした》に辿《たど》り着いたのが名指《なざし》の香取屋。
床《とこ》にも座敷《ざしき》にも飾《かざ》りといっては無いが、柱立《はしらだち》の見事な、畳《たたみ》の堅《かた》い、炉《ろ》の大いなる、自在鍵《じざいかぎ》の鯉《こい》は鱗《うろこ》が黄金造《こがねづくり》であるかと思わるる艶《つや》を持った、素《す》ばらしい竈《へッつい》を二ツ並《なら》べて一斗飯《いっとめし》は焚《た》けそうな目覚《めざま》しい釜《かま》の懸《かか》った古家《ふるいえ》で。
亭主は法然天窓《ほうねんあたま》、木綿の筒袖《つつそで》の中へ両手の先を竦《すく》まして、火鉢《ひばち》の前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁《おやじ》、女房《にょうぼう》の方は愛嬌《あいきょう》のある、ちょっと世辞のいい婆《ばあ》さん、件《くだん》の人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、にこにこ笑いながら、縮緬雑魚《ちりめんざこ》と、鰈《かれい》の干物《ひもの》と、とろろ昆布《こんぶ》の味噌汁《みそしる》とで膳《ぜん》を出した、物の言振取成《いいぶりとりなし》なんど、いかにも、上人《しょうにん》とは別懇《べっこん》の間と見えて、連《つれ》の私の居心《いごころ》のいいといったらない。
やがて二階に寝床《ねどこ》を拵《こしら》えてくれた、天井《てんじょう》は低いが、梁《うつばり》は丸太で二抱《ふたかかえ》もあろう、屋の棟《むね》から斜《ななめ》に渡《わた》って座敷の果《はて》の廂《ひさし》の処では天窓《あたま》に支《つか》えそうになっている、巌乗《がんじょう》な屋造《やづくり》、これなら裏の山から雪崩《なだれ》が来てもびくともせぬ。
特に炬燵《こたつ》が出来ていたから私はそのまま嬉《うれ》しく入った。寝床はもう一組おなじ炬燵に敷《し》いてあったが、旅僧はこれには来《きた》らず、横に枕を並べて、火の気のない臥床《ねどこ》に寝た。
寝る時、上人は帯を解かぬ、もちろん衣服も脱《ぬ》がぬ、着たまま円《まる》くなって俯向形《うつむきなり》に腰からすっぽりと入って、肩《かた》に夜具《やぐ》の袖《そで》を掛《か》けると手を突《つ》いて畏《かしこま》った、その様子《ようす》は我々と反対で、顔に枕をするのである。
ほどなく寂然《ひっそり》として寐《ね》に就きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あわれと思ってもう
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