お、お坊様《ぼうさま》。)と立顕《たちあらわ》れたのは小造《こづくり》の美しい、声も清《すず》しい、ものやさしい。
私《わし》は大息を吐《つ》いて、何にもいわず、
(はい。)と頭《つむり》を下げましたよ。
婦人《おんな》は膝《ひざ》をついて坐《すわ》ったが、前へ伸上《のびあが》るようにして、黄昏《たそがれ》にしょんぼり立った私《わし》が姿を透《す》かして見て、
(何か用でござんすかい。)
休めともいわずはじめから宿の常世《つねよ》は留守《るす》らしい、人を泊《と》めないときめたもののように見える。
いい後《おく》れてはかえって出そびれて頼むにも頼まれぬ仕誼《しぎ》にもなることと、つかつかと前へ出た。
丁寧《ていねい》に腰を屈《かが》めて、
(私は、山越で信州へ参ります者ですが旅籠《はたご》のございます処まではまだどのくらいでございましょう。)
十一
(あなたまだ八里|余《あまり》でございますよ。)
(その他《ほか》に別に泊めてくれます家《うち》もないのでしょうか。)
(それはございません。)といいながら目《ま》たたきもしないで清《すず》しい目で私《わし》の顔をつくづく見ていた。
(いえもう何でございます、実はこの先一町行け、そうすれば上段の室《へや》に寝かして一晩|扇《あお》いでいてそれで功徳《くどく》のためにする家があると承《うけたまわ》りましても、全くのところ一足も歩行《ある》けますのではございません、どこの物置《ものおき》でも馬小屋の隅《すみ》でもよいのでございますから後生《ごしょう》でございます。)とさっき馬が嘶《いなな》いたのは此家《ここ》より外にはないと思ったから言った。
婦人《おんな》はしばらく考えていたが、ふと傍《わき》を向いて布の袋《ふくろ》を取って、膝《ひざ》のあたりに置いた桶《おけ》の中へざらざらと一幅《ひとはば》、水を溢《こぼ》すようにあけて縁《ふち》をおさえて、手で掬《すく》って俯向《うつむ》いて見たが、
(ああ、お泊め申しましょう、ちょうど炊《た》いてあげますほどお米もございますから、それに夏のことで、山家は冷えましても夜のものにご不自由もござんすまい。さあ、ともかくもあなた、お上り遊ばして。)
というと言葉の切れぬ先にどっかと腰を落した。婦人《おんな》はつと身を起して立って来て、
(お坊様、それでござんすがちょっとお断り申しておかねばなりません。)
はっきりいわれたので私《わし》はびくびくもので、
(はい、はい。)
(いいえ、別のことじゃござんせぬが、私《わたし》は癖《くせ》として都の話を聞くのが病《やまい》でございます、口に蓋《ふた》をしておいでなさいましても無理やりに聞こうといたしますが、あなた忘れてもその時聞かして下さいますな、ようござんすかい、私は無理にお尋《たず》ね申します、あなたはどうしてもお話しなさいませぬ、それを是非にと申しましても断《た》っておっしゃらないようにきっと念を入れておきますよ。)
と仔細《しさい》ありげなことをいった。
山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人《おんな》の言葉とは思うたが保つにむずかしい戒《かい》でもなし、私《わし》はただ頷《うなず》くばかり。
(はい、よろしゅうございます、何事もおっしゃりつけは背《そむ》きますまい。)
婦人《おんな》は言下《ごんか》に打解《うちと》けて、
(さあさあ汚《きたの》うございますが早くこちらへ、お寛《くつろ》ぎなさいまし、そうしてお洗足《せんそく》を上げましょうかえ。)
(いえ、それには及びませぬ、雑巾《ぞうきん》をお貸し下さいまし。ああ、それからもしそのお雑巾|次手《ついで》にずッぷりお絞《しぼ》んなすって下さると助《たすか》ります、途中《とちゅう》で大変な目に逢《あ》いましたので体を打棄《うっちゃり》りたいほど気味が悪うございますので、一ツ背中を拭《ふ》こうと存じますが、恐入《おそれい》りますな。)
(そう、汗《あせ》におなりなさいました、さぞまあ、お暑うござんしたでしょう、お待ちなさいまし、旅籠《はたご》へお着き遊ばして湯にお入りなさいますのが、旅するお方には何よりご馳走《ちそう》だと申しますね、湯どころか、お茶さえ碌《ろく》におもてなしもいたされませんが、あの、この裏の崖《がけ》を下りますと、綺麗《きれい》な流《ながれ》がございますからいっそそれへいらっしゃッてお流しがよろしゅうございましょう。)
聞いただけでも飛んでも行きたい。
(ええ、それは何より結構でございますな。)
(さあ、それではご案内申しましょう、どれ、ちょうど私も米を磨《と》ぎに参ります。)と件《くだん》の桶《おけ》を小脇《こわき》に抱《かか》えて、縁側《えんがわ》から、藁草履《わらぞうり》を穿《は》
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