していようという処、かねてその用意はしていると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔《やわらか》い、潰《つぶ》れそうにもないのじゃ。
 ともはや頸《えり》のあたりがむずむずして来た、平手《ひらて》で扱《こい》て見ると横撫《よこなで》に蛭の背《せな》をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜《ひそ》んで帯の間にも一|疋《ぴき》、蒼《あお》くなってそッと見ると肩の上にも一筋。
 思わず飛上って総身《そうしん》を震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながらまず心覚えの奴だけは夢中《むちゅう》でもぎ取った。
 何にしても恐しい今の枝には蛭が生《な》っているのであろうとあまりの事に思って振返ると、見返った樹の何の枝か知らずやっぱり幾《いく》ツということもない蛭の皮じゃ。
 これはと思う、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充満《いっぱい》。
 私は思わず恐怖《きょうふ》の声を立てて叫《さけ》んだ、すると何と? この時は目に見えて、上からぼたりぼたりと真黒な痩《や》せた筋の入った雨が体へ降かかって来たではないか。
 草鞋を穿《は》いた足の甲《こう》へも落ちた上へまた累《かさな》り、並んだ傍《わき》へまた附着《くッつ》いて爪先《つまさき》も分らなくなった、そうして活《い》きてると思うだけ脈を打って血を吸うような、思いなしか一ツ一ツ伸縮《のびちぢみ》をするようなのを見るから気が遠くなって、その時不思議な考えが起きた。
 この恐しい山蛭《やまびる》は神代《かみよ》の古《いにしえ》からここに屯《たむろ》をしていて、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間にどのくらい何斛《なんごく》かの血を吸うと、そこでこの虫の望《のぞみ》が叶《かな》う、その時はありったけの蛭が残らず吸っただけの人間の血を吐出《はきだ》すと、それがために土がとけて山一ツ一面に血と泥《どろ》との大沼にかわるであろう、それと同時にここに日の光を遮《さえぎ》って昼もなお暗い大木が切々《きれぎれ》に一ツ一ツ蛭になってしまうのに相違《そうい》ないと、いや、全くの事で。」

     九

「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮《うすかわ》が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被《おっかぶ》さるのでもない、飛騨国《ひだのくに》の樹林《きばやし》が蛭になるのが最初で、しまいには皆《みんな》血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代《だい》がわりの世界であろうと、ぼんやり。
 なるほどこの森も入口では何の事もなかったのに、中へ来るとこの通り、もっと奥深く進んだら早《は》や残らず立樹《たちき》の根の方から朽《く》ちて山蛭になっていよう、助かるまい、ここで取殺される因縁《いんねん》らしい、取留《とりと》めのない考えが浮んだのも人が知死期《ちしご》に近《ちかづ》いたからだとふと気が付いた。
 どの道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者が夢《ゆめ》にも知らぬ血と泥の大沼の片端《かたはし》でも見ておこうと、そう覚悟《かくご》がきまっては気味の悪いも何もあったものじゃない、体中|珠数生《じゅずなり》になったのを手当《てあたり》次第に掻《か》い除《の》け※[#「てへん」に「劣」 117−2]《むし》り棄《す》て、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、まるで躍《おど》り狂う形で歩行《ある》き出した。
 はじめの中《うち》は一廻《ひとまわり》も太ったように思われて痒《かゆ》さが耐《たま》らなかったが、しまいにはげっそり痩《や》せたと感じられてずきずき痛んでならぬ、その上を容赦《ようしゃ》なく歩行《ある》く内にも入交《いりまじ》りに襲《おそ》いおった。
 既《すで》に目も眩《くら》んで倒れそうになると、禍《わざわい》はこの辺が絶頂であったと見えて、隧道《トンネル》を抜けたように、遥《はるか》に一輪《いちりん》のかすれた月を拝んだのは、蛭の林の出口なので。
 いや蒼空《あおぞら》の下へ出た時には、何のことも忘れて、砕《くだ》けろ、微塵《みじん》になれと横なぐりに体を山路《やまじ》へ打倒《うちたお》した。それでからもう砂利《じゃり》でも針でもあれと地《つち》へこすりつけて、十余りも蛭の死骸《しがい》を引《ひっ》くりかえした上から、五六|間《けん》向うへ飛んで身顫《みぶるい》をして突立《つッた》った。
 人を馬鹿《ばか》にしているではありませんか。あたりの山では処々《ところどころ》茅蜩殿《ひぐらしどの》、血と泥の大沼になろうという森を控《ひか》えて鳴いている、日は斜《ななめ》、渓底《たにそこ》はもう暗い。
 まずこれならば狼《おおかみ》の餌食《えじき》になってもそれは一思《ひとおもい》に死なれるからと、路はちょうどだらだら下《おり》なり、小僧さん、調子はずれに竹の杖を肩にかついで、すたこら遁《に》げた
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