悟《かくご》のことで、足は相応に達者、いや屈《くっ》せずに進んだ進んだ。すると、だんだんまた山が両方から逼《せま》って来て、肩に支《つか》えそうな狭いとこになった、すぐに上《のぼり》。
さあ、これからが名代《なだい》の天生《あもう》峠と心得たから、こっちもその気になって、何しろ暑いので、喘《あえ》ぎながらまず草鞋《わらじ》の紐《ひも》を緊直《しめなお》した。
ちょうどこの上口《のぼりぐち》の辺に美濃《みの》の蓮大寺《れんだいじ》の本堂の床下《ゆかした》まで吹抜《ふきぬ》けの風穴《かざあな》があるということを年経《とした》ってから聞きましたが、なかなかそこどころの沙汰《さた》ではない、一生懸命《いっしょうけんめい》、景色《けしき》も奇跡《きせき》もあるものかい、お天気さえ晴れたか曇ったか訳が解らず、目《ま》じろぎもしないですたすたと捏《こ》ねて上《のぼ》る。
とお前様お聞かせ申す話は、これからじゃが、最初に申す通り路がいかにも悪い、まるで人が通いそうでない上に、恐しいのは、蛇《へび》で。両方の叢《くさむら》に尾と頭とを突込んで、のたりと橋を渡しているではあるまいか。
私《わし》は真先《まっさき》に出会《でっくわ》した時は笠《かさ》を被《かぶ》って竹杖《たけづえ》を突いたまま、はッと息を引いて膝《ひざ》を折って坐《すわ》ったて。
いやもう生得大嫌《しょうとくだいきらい》、嫌《きらい》というより恐怖《こわ》いのでな。
その時はまず人助けにずるずると尾を引いて、向うで鎌首《かまくび》を上げたと思うと草をさらさらと渡った。
ようよう起上《おきあが》って道の五六町も行くと、またおなじように、胴中《どうなか》を乾かして尾も首も見えぬのが、ぬたり!
あッというて飛退《とびの》いたが、それも隠れた。三度目に出会ったのが、いや急には動かず、しかも胴体の太さ、たとい這出《はいだ》したところでぬらぬらとやられてはおよそ五分間ぐらい尾を出すまでに間《ま》があろうと思う長虫と見えたので、やむことをえず私《わし》は跨《また》ぎ越した、とたんに下腹《したっぱら》が突張《つッぱ》ってぞッと身の毛、毛穴が残らず鱗《うろこ》に変って、顔の色もその蛇のようになったろうと目を塞《ふさ》いだくらい。
絞《しぼ》るような冷汗《ひやあせ》になる気味の悪さ、足が竦《すく》んだというて立っていられる数《すう》ではないからびくびくしながら路を急ぐとまたしても居たよ。
しかも今度のは半分に引切《ひっき》ってある胴から尾ばかりの虫じゃ、切口が蒼《あおみ》を帯びてそれでこう黄色な汁《しる》が流れてぴくぴくと動いたわ。
我を忘れてばらばらとあとへ遁帰《にげかえ》ったが、気が付けば例のがまだ居るであろう、たとい殺されるまでも二度とはあれを跨《また》ぐ気はせぬ。ああさっきのお百姓がものの間違《まちがい》でも故道《ふるみち》には蛇がこうといってくれたら、地獄《じごく》へ落ちても来なかったにと照りつけられて、涙《なみだ》が流れた、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、今でもぞっとする。」と額に手を。
七
「果《はてし》が無いから肝《きも》を据《す》えた、もとより引返す分ではない。旧《もと》の処《ところ》にはやっぱり丈足《じょうた》らずの骸《むくろ》がある、遠くへ避《さ》けて草の中へ駈《か》け抜けたが、今にもあとの半分が絡《まと》いつきそうで耐《たま》らぬから気臆《きおくれ》がして足が筋張《すじば》ると石に躓《つまず》いて転んだ、その時|膝節《ひざぶし》を痛めましたものと見える。
それからがくがくして歩行《ある》くのが少し難渋《なんじゅう》になったけれども、ここで倒《たお》れては温気《うんき》で蒸殺《むしころ》されるばかりじゃと、我身で我身を激《はげ》まして首筋を取って引立てるようにして峠の方へ。
何しろ路傍《みちばた》の草いきれが恐《おそろ》しい、大鳥の卵見たようなものなんぞ足許《あしもと》にごろごろしている茂り塩梅《あんばい》。
また二里ばかり大蛇《おろち》の蜿《うね》るような坂を、山懐《やまぶところ》に突当《つきあた》って岩角を曲って、木の根を繞《めぐ》って参ったがここのことで余りの道じゃったから、参謀《さんぼう》本部の絵図面を開いて見ました。
何やっぱり道はおんなじで聞いたにも見たのにも変《かわり》はない、旧道はこちらに相違はないから心遣《こころや》りにも何にもならず、もとより歴《れっき》とした図面というて、描《か》いてある道はただ栗《くり》の毬《いが》の上へ赤い筋が引張ってあるばかり。
難儀《なんぎ》さも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してあるはずはないのじゃから、さっぱりと畳《たた》んで懐《ふところ》に入れて、うむとこの乳の下へ念仏を唱え
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